風化に抗って:「東北キリシタン」と「キリストさん」に出会う旅
ニュースレター2016年冬号の公開






風化に抗って:
「東北キリシタン」と「キリストさん」に出会う旅

東北ヘルプ事務局長 川上直哉

風にさらされる岩石が、いつか砂となり消えてゆく、そのことを「風化」というそうです。次々と災害が起こります。私たちだけ、特別に覚えていただくことは、できないかもしれません。でも、記憶の風化には、抗いたい。そのための工夫を、と考えていたところ、東北ヘルプ理事の中澤竜生牧師が、一つの提案をしてくださいました。それが、「キリシタンの遺跡」をめぐる旅と被災地ツアーを組み合わせてはどうか、というものでした。

2015年、私は、仙台白百合女子大学カトリック研究所の会議に、東北キリシタン研究を開始することを提案しました。研究所はこれを喜び、応援してくださいました。すぐ私は、宮城県登米市と岩手県一関市の皆様を訪ね、地元の関係機関・組織にご挨拶を申し上げ、登米市長にもお会いして協力をお願いしました。皆様、本当に暖かいお言葉をくださいました。その際、必ず「キリスト教の皆さんにはお世話になったから」と、一言添えていただいたことを、私は感謝して思い出しています。

 数多くの協力により、地域に伝わる伝承や史跡の様子が、次第に良く分かってきました。特に、宮城県北部にある「三経塚」の史跡は、極めて重要なものでした。「島原の乱」の約100年後、この地で、120名のキリシタンが殉教した史跡でした。江戸時代中期までキリシタンが多数残存したこと自体、驚くべきことでしたが、加えて、その「首塚」が築かれ、大切に保持されて現在に残されていることは、驚異的なことでした。キリシタンは「人間」としての扱いを受けることなく、その死骸は弔われることがなかった、はずだからです。

 そのほかにも・・・

この地域から伊達藩領内一帯に、「偽装仏教徒」としてキリシタンが残存した形跡が多数残されていること。

この地域は伊達藩の直轄領であったこと(幕府の公儀とは別の支配論理があっただろうこと)。

キリシタンは刑死者・餓死者・病死者などを差別することなく弔い、救貧基金を設立し、差別のない相互扶助を広げていたこと(そうして、人間の尊厳を、その基底から守っていたこと)。

この地域(内陸部山林)から石巻港まで製鉄の長大なラインが形成されていたこと(製鉄の技術は、中国地方から、キリシタンの技師によって伝えられたらしいこと)。

キリシタン宗はたやすく「一揆(揆を一にすること=無数の人の思いを一つにすること)」を可能にすること(全国を分断統治したい幕府が恐怖を抱き、撲滅を志したこと)。

伊達藩は江戸時代最初期、この「一揆」するキリシタンの力を用いて、製鉄・河川改修・農地開拓などの殖産事業を展開したこと。

江戸時代中期、宮城県内陸地域に相互扶助機構が存在し、その設立者は互いに、「上座等不致様心掛(寄合などで上座につかぬよう心がけよ)」と語りかわしたこと、また、身分最下位の商人が、身分最高位の武士の振る舞いに不誠実を見つけた時、それを「不埒」と指弾したこと、が記録されていること
(龍泉院 榮洲瑞芝「國恩記」1776年)。

江戸時代末期、伊達藩医の娘でもある文筆家・只野眞葛が『キリシタン考』を上梓し、キリシタンが「天主」と「天父」をもつ「危険思想」である、と力説したこと。

1872年(明治5年=ロシア正教会が石巻で宣教を本格化した年=所謂「高札撤去」の前年)の3月11日、仙台でキリスト教徒の大量逮捕者が出たこと
(長崎県、佐賀県に続く、宮城県下「耶蘇教講談事件」)。
































・・・といった事柄が、つなぎ合わされてきました。

地域の人々の生活に寄り添い、人々の尊厳を守りながら、産業を興す基盤となるネットワークを組み立て、仏教徒・伊達藩などとも緊張感を保ちつつ信頼関係を結び、迫害の中を生き抜いたクリスチャンの先達。教会もなく、十字架も掲げず、牧師も神父も神学者も不在で、聖書すら手元にない。そんな中で、愛の業にひたすら励みつつ、主の日の到来を待ち続けた信仰の先達。そうした「キリシタン」の姿が、浮かんできました。その姿は、風化する被災地に励むクリスチャン・ワーカー(現地では親しみを込めて「キリストさん」と呼ばれています)への、大きなエールとなって響くように思われてなりません。

東北ヘルプは、この「東北キリシタン」と「キリストさん」をつないでめぐるツアーのガイドをさせていただいています。すでに国内外いくつもの教会・団体がこの企画で被災地とキリシタン史跡を訪れ、私たちと「21世紀の宣教」について、語り合ってくださいました。私は特に、「なぜ、このキリシタンは、江戸時代の終焉後、東北で一旦姿を消したのか」を考えています。そこには、日本宣教のための隠された課題が秘められているように思われてなりません。 「東北キリシタン」と「キリストさん」を訪ねるツアーを企画してくださった団体の一つに、日本キリスト教会の皆様がおられます。その報告書に寄せられた中家契介牧師の報告文を、以下にご紹介いたします。

(2016年10月26日 記)

※追記:「東北キリシタン」と「キリストさん」を訪ねる旅にご興味を持ってくださいましたら、東北ヘルプまでご連絡を賜れば幸いです。株式会社シオントラベルのお力をお借りして、旅行費などのご要望にも、お応えできると思います。



出会いと交わりに感謝
中家契介
私は地元である仙台からの参加でしたが、様々な発見もあり、すばらしいツアーを計画してくださったこと、本当に感謝でした。

最初に訪ねた日本基督教団東北教区被災者支援センター「エマオ」では、震災から五年半が過ぎてもまだというか、むしろ仮設住宅の問題がいっそう深刻になっていることが印象に残りました。仙台市では仮設から入居者が退去し、新居に移る動きがピークを迎えているのに対して、石巻市などでは復興住宅などの供給がなかなか進まず、まだ約半数の方が入居している状況とのこと。また「ただ〈箱物〉を造っておしまいではなく、心の復興が求められている。スローワークを大事にして、寄り添っていきたい」というスタッフの説明が心に残りました。

続いて訪れた南三陸町では、ホテル観洋のスタッフ伊藤さんによる「語り部」ツアーがありました。ボロボロになった建物に案内されましたが、そこはかつてセレモニーホールだったとのこと。震災の日は大勢のお年寄りがカラオケ大会をしていて、急いで家に帰ろうとする人たちをスタッフが出口で通せんぼをして押しとどめて屋上に避難させ、皆が助かったといいます。「助からなかった出来事ばかりが伝えられますが、助かった命もあるということを、この残された建物を通して伝えていきたい。ほんの少しの心がけが、命の分かれ目になるのです」と伊藤さん。
南三陸の町は今、ほとんどの建物が解体され、かさ上げ工事によってピラミッドのような巨大な盛り土があちこちに積み上がっています。「町の風景は、時と共に変わっていきます。例えば小学校の建物がなくなったら、そこに通っていた子どもたち、起こった出来事まで、なかったことになりかねない。だから、言葉で伝えていくことは、時間がたてばたつほど大事になる」とも言われました。南三陸町でも、高台に建物が続々と建てられ、新しい町ができ始めていますが、「建物ができただけではダメで、人と人の心のつながりが生まれてこなければ」と、コミュニティーをつくっていく苦労がうかがえました。

翌日は、キリシタンの史跡を巡りました。二〇一二年の夏に被災地ボランティアでカリタス・ジャパン(カトリック)の米川ベース(宮城県登米市)に宿泊した際に、登米市東和町のあたりにキリシタンがいた話は聞いていましたが、隣接する岩手県一関市藤沢町を含め、こんなにたくさんのキリシタンがいたことに驚きました。また製鉄業の発展と共に聖書の教えが人々に浸透していったことも初耳でした。米川地区で処刑された遺体は、経文と共に3か所に埋められたと伝えられています。その一つである「海無沢(うなざわ)三経塚」を訪れました。ここは日本における最北の殉教地として、全国から巡礼の人々が訪れる場所でもあるそうで、ぜひ全国の皆さまに も訪れていただきたく思います。
併せてお勧めしたいのが、岩手県一関市藤沢町大籠にある「キリシタン殉教公園・資料館」です。三〇〇人以上の信者が処刑されたことを覚えて、三〇〇段の階段が設けられています。階段がきつい方はスロープで登ることができ、階段とスロープが交差するところに、「ヴィア・ドロローサ」(苦難の道)に模して「イエスの汗を一人の婦人が拭った」といった石碑があります。殉教者たちと共に、主イエスが苦難の道を歩んでくださっていることがあらわされているのでしょう。階段を登り切ったところに彫刻家の舟越保武さんの設計指導による「大籠殉教記念クルス館」があり、そこからは町を一望できる素晴らしい風景が広がっています。

なぜ、こんなに迫害を受けてもキリシタンたちは信仰を守り続けたのかという疑問に対して、ガイドを務めてくださった川上直哉牧師(日本基督教団仙台北三番丁教会)は「病氣になったり、身寄りがなくなったりしても最後まで面倒をみるクリスチャンのあり方、つながりが、信頼されたのではないか」と語っておられましたが、そのキリシタンの信仰は、現代にも息づいているように思いました。

ツアーの最後は、宮城県東松島市の東名・野蒜(とうな・のびる)地区でした。ここで震災後すぐに、多くの支援グループと協力しながら、家の泥出しや修繕作業に従事された日本キリスト改革派東仙台教会は、立石彰牧師と二名のスタッフで、今も「にじいろ楽習会」という学習支援やラーメン店「楓」を通して、地域に関わり続けておられます。そこに、小さい者と共に歩まれる主イエスの姿を見るような思いがしました。私たちも、仮設で暮らしておられる方のこと、原発被害を受けている方のことを忘れることなく、それぞれの場において関わり続けていけたらと思います。青年の参加者が少なかったのが少し残念でしたが、本当にすばらしい出会いと交わりの 時となったことを感謝しています。


(ニュースレターの別の記事はこちら)

まとめ:東北ヘルプニュースレター 2016年冬号の公開



<記事1> 東北ヘルプの新しいスタート




<記事2> 福島への支援/福島での支援




<記事3> 台風10号被災地でのキリスト教ボランティアについて




<記事4> 東北ヘルプ「短期保養支援」の面談結果について






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