不安に抗するために

震災から1年半以上の時が過ぎました。
気が付けば、2012年の10月も終わろうとしています。
時の進みの速さに驚きながら、
一方で、発災直後がつい昨日のようにも思われます。

時間の変化が激しいのは、津波被災の現場に立つと、強く自覚されます。津波に関しては、震災が「終わった」ように思われます。津波の痕跡は、すさまじい勢いで消えて行くのです。そして、震災に起因する大きな苦しみが、新しく生起している。今、津波被災地のほとんどの場所で、既に「震災後の日常」が送られています。そこには深い孤立の苦しみが生まれています。それはつまり、時の流れの速さについていけない自分がいることを発見する苦しみです。忘却の淵に沈み込みそうになるような思いがある。そして、胸の中に残った悲しみは、いつまでも「震災直後」のままにある。――そうしてそこに、引き裂かれるような苦しみが生じているのです。
それと同時に、被災直後から遅々として進まない時間の流れがあります。むしろ、今まさに、徐々に「震災」の姿が明らかになりつつあるような、そんな不気味な現実があります。それはつまり、放射能被害です。
津波被害は、既に起こってしまった「震災」から生起してくる苦しみを人々に与えています。それは「孤立」という苦しみです。
放射能被害は、これから時間をかけてその全貌を示し始める「震災」の不気味な予感を以て人々を苦しめています。それは「不安」という苦しみです。
この二つの苦しみを分けて考えることが、これから大切だと思います。
さて先日、「不安」の中にある苦しみを語ってくださる機会に、私たちは立ち会うことができました。今、放射能被害の中に生きる人々は、どんな思いで過ごしているのか。それを聞きたいと願う私たちのために、福島県キリスト教連絡会(FCC)の皆さまが、「福島の震災を語る会」を開いてくださいました。私たち東北ヘルプは、その開催のお手伝いをさせて頂きました。

僧侶の森田さんが、福島県キリスト教連絡会が開催した「福島の震災を語る会」の報告書を、書いてくださいました。森田さんは、仏教者として、キリスト者が主催し参集した会に、参加してくださったのです。そのことの意味は、小さくないように思います。
備えあれば、憂いなし――「不安」に抗するには、「備え」をするほかありません。「備え」とはなんでしょうか。それは、連帯を作り出すことです。つまり、いざ「パニック」となるような事態が生じた時(そうしたことが起こらないことを願いますが)、すぐに連絡を取り合い機動的に対応ができるような、緩やかでも広い連帯を創り出すことに、尽きると思います。
今、東北ヘルプは、FCCなどと共に、そうした広い連帯を創り出そうと試みを続けています。既にホームページにご紹介したとおりなのですが、私たちは既に、9月17日には韓国の諸教会との連帯を創り出す一歩を踏み出しました(第二回日韓キリスト者信仰回復聖会)。そして9月29日には全国の諸宗教者との連帯を創り出す一歩を踏み出したのでした(「原発と憲法九条」)。さらに、その歩みは展開しました(10月5日の研修会「祈りと学びのつどい」)。
そして、10月8日にはFCCの催事があり、そこに仏教者の参加があったわけです。
連帯を広げる歩みは、これからも展開します。その大切な一歩として、森田さんの報告を以下に掲載します。私たちの歩みを知っていただくのみならず、何よりも、福島の痛みを知っていただく一助として、ご高覧を賜れば幸いです。

(2012年10月24日 川上直哉 記)

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