被災地からのメッセージ

東日本大震災より二年

東日本大震災より2年が過ぎました。

今回、キリスト教史学会により
東北仙台にあり震災を経験したキリスト者としての体験と記憶が
その会報に記されました。

東北ヘルプとして、また、支援に携わる者として
事務局長よりその道のりを記させて頂きました。

以下に、会報の記事をお知らせします。
ご高覧を賜れば幸いです。

(2013年3月29 東北ヘルプ 事務局)

東日本大震災より二年

被災地からキリスト教史への記憶として

川上直哉

2011年3月11日に起こった震災に対し、キリスト教界が執った対応について、以下、後世の「キリスト教史」のための資料として、想起される範囲で仙台から見えた様子を記し、その総括を行う。

1.震災直後

当初、各教会は信徒の安否確認に追われた。他方で、1960年代より継続して結束を持ってきた仙台キリスト教連合は、その世話人の震災関連死をきっかけとして、支援活動組織「被災支援ネットワーク」を立ち上げた。このネットワークは「東北ヘルプ」と呼ばれることになった。3月18日のことである。筆者はその事務局長の任を担った。 国内外の支援団体は、直後からその活動を活発化させた。教会がその受け皿となった。東北ヘルプはその連絡調整を担いつつ、募金を集めて一時見舞い金を全ての被災教会に送付した。 4月、身元不明者の弔いを念頭に、東北ヘルプは仙台仏教会と共に、宮城県宗教法人連絡協議会の下「心の相談室」を立ち上げた。 「心の相談室」の相談事業のために、東北ヘルプは反貧困みやぎネットワークとの協働を開始した。後に東北ヘルプ事務局長は同ネットワークの代表代行となる。

2.三ヶ月後から一年

4月・5月と、WCC系列の支援団体はソウルに二度の国際会議を開催した。東北ヘルプもそこに参加した。世界の支援団体は、支援を日本キリスト教協議会(NCCJ)にまとめ、東北ヘルプに現地の受け皿となることを求めた。この要請を受け、東北ヘルプは財団法人を設立し、支援を被災地へつなげる活動を始めた。また、外国人被災者支援センターと食品放射能計測所、そして諸宗教間連携のための制度作成・人材育成に当たる東北大学寄附講座を設立した。

3.二年目

東北ヘルプは、引き続き上記支援活動を継続しつつ、福島県キリスト教連絡会や日本基督教団東北教区、そして日本聖公会と連携し、福島県でのアドボカシー活動を開始した。 特に東北ヘルプは、韓国で行われる世界教会協議会(WCC)総会を念頭に、福島の現状を国際社会に伝える活動に携わった。

2012年8月にはニュージーランドの教会と共にWCCのブース展示を行うことを決め、同年9月には韓国基督教会協議会(NCCK)と協働の催事を仙台で行い、同年10月には福島県下の牧師の声を集める催事に関わり、同年11月にはアジア教会協議会(CCA)のコンサルテーション・ミーティングに参加し、同12月にはNCCJ等が主催した国際会議の現地担当者の任を担い、2013年1月には米国合同メソジスト教会主催のワークショップに参加し、2月には日本福音同盟(JEA)と共に韓国へ13名の被災地の牧師を伴うツアーを実行した。

4.総括

(1)多元主義的ではない協働
プロテスタント、カトリック、正教の三者が相互に協力し合うこと、また、諸宗教者が協働することが、今次の震災対応において成立した。その際、多元主義的によるのではなく、むしろ自らの宗教への確信に従って、しかし他者を尊重しつつ、被災者を接点として、諸派・諸宗教の一致が成立したことこそ、注目されるべきものと思われる。

 


(2)宗教の公共的役割
死者への儀礼あるいは見返りを求めない奉仕等、宗教者ならではの働きに公共的な役割があることが確認された。それは、「自勢力の拡張」と切り離された宗教の公共的役割のあること、無力さの中に佇む力を有する宗教の価値を、宗教者自身が確認する機会となった。このことを契機として、宗教者は宗教者として自らを顕示しつつ公共空間に役割を持つことができた。

 

(3)行政及びその他公共セクターとの協働
上記の公共的役割は行政及びその他公共セクター(医療や福祉等)との協働を可能にした。とりわけ、諸宗教の協働は社会的信用を獲得する際に大きな役割をもった。

 

(4)宗教施設の価値
寺院・神社・教会などは、支援センターとして物資の配給所となり、また、避難所となった。宗教施設がこうした役割を担い得るということを改めて確認し、宗教施設が有事に活用されるよう行政と平時から連携を持つことで、災害支援への備えに厚みを与えることができるものと思われる。

 

(5)様々なネットワークの連携
各宗教は異なる形式のネットワークを有している。神社は地方自治の最小単位である町内会等と密接であり、寺院は檀家制度によって別の形で地域と結びつき、キリスト教は全国・全世界と直結している。これらのネットワークが相互に結び合うことで、地元に密着しつつ世界と直結する連携が可能となった。今後、福島の状況への対応において、この「密着」と「直結」が両立することが必須になってくるものと思われる。

 


(6)遺産の活用
今次の災害において見られた協働の背後に、1960年代以降の諸宗教間対話とエキュメニカル運動の遺産があることを特記したい。また、諸宗教間連携が東北特有の宗教的資産の活用を目指したことは、重要である。その展開は、キリスト教のイニシアチブで進められた。それは、キリスト教の歴史の薄さに基づく「しがらみのなさ」があった故である。地域に密着した伝統の厚みと、世界と直結している自由さとが重なり合う時、遺産は活用される。このことが、今次の災害においてキリスト教界が携わった災害支援活動から知られた。

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出会いの連鎖
2012年下半期を振り返り、2013年を望見する

皆さま、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2013年最初の記事をお届けさせていただきますが、この記事はここ数ヶ月の私たちの活動を象徴した、長いものとなりました。

今回はその記事を4回にわたって更新させていただき、新年のご挨拶に代えさせていただきたく存じます。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

以下のリンクをクリックいただきますと、各記事の冒頭から読むことができます。

(1)「菅英三子 チャリティー・コンサート」

(2)「東北ヘルプ親善大使 崔徳信」

(3)「仙台市民クリスマス」と「崔徳信クリスマス・コンサート」

(4)「2012年12月14日」

(2013年1月7日 阿部 記)

2013年になりました。新しい年の最初に、私たちはこれまでの歩みを振り返っています。

東北ヘルプは、1か月で終了することを目指して始まりました。それが2013年に至っても活動を続けていることは、不思議です。その歩みは、「出会いの連鎖」の物語として回顧されるものと思います。

2012年の冬、東北ヘルプは、11月24日に「菅英三子チャリティー・コンサート」を、そして12月14日に「崔徳信クリスマス・コンサート」を主催しました。更にその背景には、40年ぶりに復活した「仙台キリスト教連合主催・仙台市民クリスマス」の開催がありました。それは、2012年の夏から冬にかけて展開した、一繋がりの「出会いの連鎖」でした。

以下、その経緯について、感謝を込めて、皆様にご報告いたします。

1.「菅英三子 チャリティー・コンサート」


東北ヘルプは、今、組織の改編を始めています。

これは、11月1日の全体会の承認に基づくもので、現在の財団法人を中心とした体制から、NPO法人を中心とした体制へと漸次的に移行し、「細く長く」活動を続けて行けることを目指しているものです。

その最初の活動は、「有料協賛会員」の募集から始まります。「有料協賛会員」を100名募ることができたNPO法人は、「認定NPO法人」となることを申請することができます。もし「認定NPO法人」となることができれば、寄付者への税控除等の特典を得られることになり、社会的信用を獲得することができるのです。

この活動の最初に、世界的に知られるオペラ歌手の菅英三子さんがお力を貸してくださいました。昨年の晩夏、菅さんは、東北ヘルプのためにチャリティー・コンサートを開催しようとお申し出くださったのです。思いもかけない大きなご好意に、私たちは心から深い感謝を覚えました。後述しますが、実は、菅さんは東北ヘルプ(その正式名称は「仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク」)と、とても深い関係をお持ちの方だったからです。

そして2012年11月24日、コンサートは開催されました。そしてこの日、初めて、「協賛会員」の募集が、このコンサートで行われたのでした。東北ヘルプの新しい一歩は、ここに始まったのです。

私たち東北ヘルプは、今までに何度もチャリティー・コンサートに「呼んで頂いた」ことがあります。しかし、仙台キリスト教連合の催事を別にしますと、自分たちで行事を最初から最後まで執り行うことは、初めてでした。多くの足りない点がありました。しかし、コンサートはとても素晴らしい内容となりました。仙台キリスト教連合関係の催事としては、過去最多の集客となり、会場はとても温かい空気に包まれたのでした。

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2.「東北ヘルプ親善大使 崔徳信」

11月のチャリティー・コンサートに至る菅さんとの出会いの出来事に並行して、東北ヘルプはもう一人のアーティストとの出会いに恵まれました。そのアーティストとは、崔徳信(チェ・ドクシン)さんです。そしてこの二つの出会いが、12月に一つに繋がります。一つの出会いは、また一つの出会いと繋がり、そうして祝福の連鎖が生み出されるのです。


宮城県内の仮設住宅で。右端が崔徳信さん。

韓国のキリスト教音楽は、80年代に大きな転換点を迎えました。当時、若者を中心として、それまでの伝統的な讃美歌だけではない、ポップスやフォーク、ロックンロールといった自分たちになじみ深い音楽を用いて讃美歌を歌いたいと考える人々が生まれていました。やがてその流れは大きなものとなるに及び、まったく新しい讃美歌が生み出されます。その新しい讃美歌はCCM(Contemporary Christian Music)と呼ばれるようになりました。この新しい讃美歌は、多くの人々の慰めとなり、力づけ、あるいは献身者として立ち上がらせるきっかけとなったのでした。

この流れは一人のアーティストによって生み出されたものでした。そのアーティストが、崔徳信(チェ・ドクシン)さんでした。崔さんは、「その名」「私」「あなたを愛す」などといった曲で、韓国における讃美歌の可能性を大きく広げた人として知られています。

私たち東北ヘルプは、2012年9月17日、在日大韓基督教会等の関係各位のお力をお借りし、韓国キリスト教協議会(KNCC)の皆様をお招きして、在日韓国基督教総協議会(CCKJ)とご一緒に「第二回東北日韓キリスト者信仰回復聖会」を、仙台にて開催いたしました。この催事は、既にホームページでお知らせ致しました通り、2011年11月に行われた第一回の聖会に続いて行われたもので、盛会の内に終了することができました。

力強いメッセージと音楽が中心となったこの会に、崔さんは出演アーティストの一人として来日くださいました。更に崔さんをはじめとしたアーティストの皆さまは、聖会の後、被災地域の仮設住宅をいくつも回ってくださり、音楽と祈りをもって、傷つき困難の中にある人々を励ましてくださったのです。(このことも、既にホームページでご報告いたしました通りです。)

被災地の仮設住宅ですから、そこにスポットライトが当たる舞台はありません。それでも皆さまは心を込めて音楽のメッセージを被災地に届けてくださったのです。それは、東北で支援を続ける私たちにとっても大きな励ましとなりました。皆さまの熱意は、震災から2年を経ようとする中でなお、多くの方が祈ってくださっていることを雄弁に伝えてくださったのです。

聖会と仮設住宅訪問が終わる頃、崔さんをはじめとしたアーティストの皆さまと私たちは打ち解け、信頼関係を確かなものとしていました。その中で私たちは多くのお話を伺いました。それはなぜ崔さんが無名に近い私たちの会に参加してくださったのかというお話でした。

崔さんは、中学校から高校にかけての4年間を、日本で過ごしていたことがあったそうです。お父様は、栃木県にあるアジア学院で学び、北海道で農業に関わる研究と働きに従事されたのでした。そのために多感な時期を日本で過ごした崔さんは、自らの人生にも音楽にも、日本の文化が大きく影響しているとお話しくださいました。そして韓国に帰国され音楽大学を卒業し、音楽家として活動され有名になられた中でも変わらず、日本への愛着を持ち続けてくださったのでした。

そうした中、今回の東日本震災が発災します。大きな地震に揺さぶられ、津波に呑みこまれて跡形もなくなってしまった田畑や家々。そして雪の中で寒さに震えながら何日も過ごさなければならない人々。テレビの画面を通して写されるその光景はあまりに衝撃的なものであったと、崔さんは語ります。

崔さんはそれから何度も日本に足を運び、韓国で支援の働きを始めてくださいました。そうする中で今回、私たちの聖会の事を知り、駆けつけてくださったのだというのです。

崔さんの日本への温かい想いに、私たちは胸を打たれたのでした。

被災地という大きな問題の前に、私たちは今なお立ちつくしています。そしてこの9月に崔さんは音楽を通して被災地の私たちを支えようとしてくださった。すべての予定を終えて帰国されることになったとき、私たちは、崔さん一つのお願いをしてみることにしたのでした。それは、崔さんに「東北ヘルプ親善大使」になっていただけないか、というお願いでした。厚かましい申し出でした。しかし崔さんはにっこりと、確かな笑顔で引き受けてくださったのでした。

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3.「仙台市民クリスマス」と「崔徳信クリスマス・コンサート」


  • 仙台市民クリスマスチラシ

  • 崔徳信クリスマス・コンサートチラシ

上記の出会いは、菅さんのコンサートを準備する中で並行して起こった出来事でした。そして更に、菅さんのコンサートはその過程で一つの新しい(そして遥かに懐かしい)催事を生み出し、その催事に崔さんが合流することになります。

菅さんから「11月にチャリティー・コンサートを」とのお申し出を頂いたことは、私たちにとって、とても意義深く感じられました。その意義とは、仙台キリスト教連合の歴史が想起させるものでした。

東北ヘルプは、仙台キリスト教連合の震災対応の部局です。仙台キリスト教連合の前身は、日本基督教団の牧師会でした。1970年代、日本基督教団の仙台・塩釜地区牧師会が他教派の牧師を招く形で、仙台キリスト教連合は緩やかに始まったのでした。当時、招かれ集った超教派の牧師たちは、協働して「仙台市民クリスマス」を開催していました。

1988年、この牧師会の代表であった菅隆志牧師が急逝されます。この菅牧師こそ、菅英三子さんの御尊父でした。この時、菅牧師の後任として、初めて日本基督教団以外の牧師が、仙台キリスト教連合の代表となります。そしてその翌年、「大嘗祭」という出来事が起こり、仙台圏の教会の立場を声明文として表さなければならない事態となる。こうして、名実ともに「仙台キリスト教連合」が誕生します。

こうしてみますと、菅隆志牧師は、仙台キリスト教連合にとって、その立ち上がりの節目に常に思い出されるべき大切なお名前である、と言えるでしょう。その菅牧師の御愛娘である英三子さんが、仙台キリスト教連合の建てた東北ヘルプのためにお力をくださることに、不思議なつながりを覚え、私たちは深い感慨を覚えたのでした。

東北ヘルプ事務局長の川上は、チャリティー・コンサートの準備の途中、感謝を込めてこのことを菅英三子さんにお伝えしました。その時、菅さんは、御尊父がお元気であった頃、仙台キリスト教連合が主体となって「仙台市民クリスマス」が開催されていたことを懐かしく思い出されました。そして、その復活ができればと、川上と英三子さんは、夢を語り合ったのでした。

すると数日後、菅さんから電話があります。「仙台市民クリスマス」を行うのにちょうどよい日程で、ちょうどよい会場が予約できたので、やりましょう、と。

そして、2012年12月14日午後7時から、仙台キリスト教連合が主催して「仙台市民クリスマス」が約30年ぶりに行われることとなったのでした。主催は「仙台キリスト教連合」となり、牧師・信徒約40名による聖歌隊が編成されました。「クリスマスは教会へ」というメッセージを中心として、9月から準備が始まります。


市民クリスマス聖歌隊練習風景

そして、この催事を知った崔徳信さんが、参加しますと、お申し出くださいました。それは、崔さんの被災地への変わらない想いを示してくださったものでした。私たちはとても喜びました。

そこで私たちは、崔さんに、正式な形で「親善大使」をお願いする式を持たせて頂こうと考えました。そして、この式を最後のサプライズとした「崔徳信クリスマス・コンサート」が、12月14日の2時半から、つまり同日夜に行われる「仙台市民クリスマス」の付帯事業として、セットされたのでした。

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4.2012年12月14日

以上のような経過を辿り、二つの催事が一つに結び合わされました。つまり、2013年12月14日の午後2時30分から、東北ヘルプが「崔徳信クリスマス・コンサート」を、そして同日午後7時半から、仙台キリスト教連合が「仙台市民クリスマス」を、それぞれ開催することとなりました。

「仙台市民クリスマス」に向けて、菅さんは、毎週日曜日の午後5時から行われた聖歌隊の合唱練習に、ほぼ毎週参加してくださいました。また、菅さんは、声楽家の高橋絵里さんに指導をお願いして下さるなど、きわめて豊かな時を聖歌隊が過ごすことができるように、行き届いたご手配をくださいました。更に、チラシや当日のパンフレット等のデザイン、聖歌隊参加者への連絡のための名簿作成なども担ってくださり、その準備から開演まで、文字通り中心的な役割を果たしてくださったのでした。

「クリスマス・コンサート」に向けて崔さんは、前日12月13日に来日くださり、まず南三陸町へと足を運んでくださいました。崔さんは津波で根こそぎ失われた南三陸の町を見つめ、12月16日に開催される地元の子ども会のチラシ配りを、誰にもお願いされたわけでもなく、手伝ってくださいました。

そうして14日となります。

「クリスマス・コンサート」で崔さんは、共演のYoonji(ユンジ)さんと共に、心を込めて音楽のメッセージを届けてくださいました。

代表曲である「私」「その名」、クリスマスソングからはロックミュージックとして大胆なアレンジを施した「O, Holy Night」、更に、震災時アメリカでレコーディングをされていた崔さんが、その場のアーティストの協力を得て、作成した日本語での讃美歌であり、日本への応援歌でもある「愛する友よ」等を、歌ってくださいました。

美しいメロディーと、そこに込められた讃美と祈りは私たちの心を確かに癒し、神への賛美へと想いを羽ばたかせ、クリスマスの喜びを新たにしてくださるものでした。

素晴らしい賛美の時間を共にした後、東北ヘルプの吉田隆代表から崔さんに「東北ヘルプ親善大使任命状」を授与する式が行われました。


讃美歌を歌われる崔さん

その後、夜7時から「仙台市民クリスマス」が始まります。冒頭は、高橋絵里さんの独唱。そして祈祷・聖書朗読・説教の合間にクリスマスの讃美歌が聖歌隊によって奉唱されました。菅さんも崔さんも、この聖歌隊に加わってくださいました。崔さんの「インマヌエル」独唱と、菅さんの「さやかに星はきらめき」独唱に挟まれるようにして、吉田隆代表が説教をしました。「震災の中でも、放射能の恐怖の中でも、神様は、どこにも行っておられなかった。神様はいつも、そばにおられるのです。」というメッセージが、語られたのでした。

そして最後に、

見よきょうだいが 共に座っている

なんという恵み なんという喜び

と語るテゼの歌を以て終了した会場は、文字通り多幸感にあふれていました。


市民クリスマス聖歌隊


新年にあたり、東北ヘルプは二つの方向へ、広がりと深まりを求めて進みたいと思っています。

一つは、地元にある一つ一つの教会・団体・地域です。現場から離れては、どんな支援も空疎となるでしょう。現場は、足元・地元にあります。地元の教会の一致を求めて、私たちは仙台キリスト教連合の一部として、いよいよ理解と連帯を求めて行きたいと思います。そうした中で、菅英三子さんが協働してくださいましたことは、私たちにとって本当に心強いこととなりました。

そしてもう一つ、今後、東北ヘルプは世界との連携を深めていきたいと考えています。今は特に、韓国の教会の皆様との連携を強化したいと願っています。韓国の皆さまは、政治的な困難が立ちふさがる中にあってもなお、本当に熱い思いで被災地を祈り支え続けてくださっているからです。このことは2年目から3年目の活動を展望する私たちにとって、代えがたい支えとなっています。その連携の中で崔さんが親善大使として両者を繋いでくださることは、やはり本当に心強いこととなりました。

日本と韓国の間に、歴史・戦争・領土等、多くの問題が存在するのは悲しい事実です。また、地元の教会もまた、高齢化の中で震災後の日常を生きる日々に、疲弊し息切れを見せています。

そうした中で、容易く分断が引き起こされることでしょう。しかし分断は何も生み出すことがないのです。私たちが目指すべきは、避けがたく分断が生ずる中で、互いのために和解を訴え、そのために祈り、自らを献げることではないでしょうか。

パウロという人が聖書に有名な言葉を残しました。それは教会という人の集団を、一つの体にたとえる言葉です。パウロは弱い部分に注目します。弱い部分こそが、身体を一つに結び合わせる。だから弱い部分を軽んじてはならないというものです(Ⅰコリ12:20-26)。

私たちの生きる世界においては分断が不可避である、というのが現実かもしれません。それに加えて、震災は多くの人を困難の中に陥れて今に至っています。しかしそこに解決のヒントがあるかもしれない。私たちが震災に痛む人々と共にあるならば、私たちは祈りを通して、何度でも、一つになる可能性を持っているはずです。

私たちは、そのようにして皆共に主に用いられることを通して、一人一人の被災者各位が絶望から抜け出し、希望を見出すことを心から祈り励んでいます。そうした私たちの働きが、混乱の中にある世界に和解を示す「燭台に置かれたともし火(マタイ5:15)」となることを、私たちは望見しています。小さな地元の出来事が、世界の平和に直結して行くのではないかと、望見しているのです。

2012年の下半期を振り返り、そこにあった出会いの連鎖を辿る時、私たちは大望を抱きつつ足元を一歩一歩踏みしめて進むことができるような気がしてきます。

新しい年も、どうぞ宜しくご支援の程、お願いを申し上げる次第です。

(2013年1月1日 阿部頌栄・川上直哉 記)

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名古屋からのメッセージ

去る10月9~11日、名古屋YWCAの皆様が被災地を訪問してくださいました。

訪問は、福島から岩手に至る三県を巡るものでした。私たち東北ヘルプに、この旅のお手伝いを要請いただきました。私たちは、青森から福島までのネットワークを構築し保持することを目指しております。喜んで、ご協力させて頂いたのでした。

YWCAの皆様に、私たちは特別な感謝を抱いています。震災直後、本当に混乱の中にあった時、全国からYWCAの皆様が駆けつけ、東北ヘルプの事務処理を素晴らしい手腕で進めてくださったのです。

今回、すこしでもその恩返しができればと思い、旅をご一緒させていただきました。旅の終わった後、名古屋YWCAの永山様からは丁寧な御礼状を頂き、更に、素晴らしい報告書を頂くことができました。

恩返しをしたいと願って、却って大きな喜びを頂くということ。東北ヘルプは本当に恵まれていると思います。許可を頂き、感謝をしつつ、以下にその報告書をご紹介いたします。

(2012年11月8日 川上直哉 記)

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第二回 東北日・韓キリスト者信仰回復聖会 報告(その1)

9月17日(月)、『霊よ、四方から吹き来たれ』との主題の下、仙台青葉荘教会にて、「東北日韓基督者信仰回復聖会」が開催されました。

この催事は、在日韓国基督教総協議会の皆様が「被災地のクリスチャンを励ましたい」という願いを込めて企画してくださったものでした。

第二回目となりました今回は、韓国基督教教会協議会(NCCK)から会長をはじめ  名の方がおいでになり、また、4名のアーティストの方々(崔 徳信=チェ ドクシン、金 秀眞=キム スジン、孫 愛英=ソン エヨン(Violin)、チェ ハンソンの四氏)がおいで下さいました。


  • チェ・ドクシンさん

  • キム・スジンさん

  • ソン・エヨンさん

  • チェ・ハンソンさん

この方々は、被災地で大きな励ましと慰めを与えてくださいました。17日の聖会をはじめ、16回に及ぶコンサートや祈祷会に参加くださり、延べで737名の方々に希望と喜びをお届けすることができたのでした。

以下、数回に分けてこの催事の報告をいたします。まず最初は、聖会の説教を担当してくださった住吉先生の説教原稿をご紹介いたします。この説教の熱によって、聖会は篤く燃えたのでした。放射能被災地で働く牧師の思いを分かち合っていただくためにも、どうぞ、ご高覧下さい。

(2012年10月2日 川上直哉 記)

原発に向かわれたイエス 共生~共に生きる~

聖書:ヨハネ3章16節 / ローマ書12章15節

福島県キリスト教連絡会 副会長 住吉英治(日本同盟基督教団 勿来キリスト福音教会牧師)

第二回ー東北日・韓キリスト者信仰回復聖会を今日ここに持つことができたことを心から感謝申し上げます。この聖会において神さまの栄光が豊かに現されんことを心から祈ります。

本来ここには福島県キリスト教連絡会委員長の木田恵嗣先生が立ってお話をされるのがふさわしいのですが、木田先生のご都合により、副委員長の私がお話をさせて頂くことになりました。ご承知置き下さい。

まず最初に、昨年の3.11とその後のことを少し振り返り、また私自身が支援活動をさせて頂くことになった原点についてお話をさせて頂きたいと思います。

2011年3月11日金曜日。午後2時46分。マグニチュード9.0。その日私は買い物中でしたが、浜通りの保育所で働く妻を助けるため、すぐに保育所に向かいました。その時大津波警報10㍍が発令されていました。保育所に着いた時、子ども達を返すまでは妻を連れて帰れないことが分かったとき、死ぬなら妻と一緒だと覚悟しました。テレビを見ると、近くの漁港に津波が押し寄せ、車がさらわれている様子が写っていました。それを見た瞬間、顔面蒼白となりました。

幸い大津波は来ず、子ども達を避難させ、妻を連れて家に帰ったのは夜の11時でした。

後で知ったのですが、その日教会の前が津波で川が逆流し、40㌢程冠水したとのことでした。その夜は相次ぐ余震、家の倒壊・津波の心配で避難所に避難しました。こうして避難生活が始まりました。

翌日12日土曜日、福島第一原発の爆発事故。人々は一斉に仙台や郡山、東京方面に向けて避難しました。私たちの町からもあっという間に人々が東京方面や内陸に向けて避難し、町の6割強の人たちがいなくなりました。13日(日)の礼拝は、5名で守りました。

私たちもいつ避難しょうかと神さまに祈っていました。でも神さまはそのたび「まだまだダメだ」と仰いました。その間、いろんな所から「住吉さんたちの部屋は確保してあるから、すぐに避難して来なさい」との電話をいただきました。嬉しく思いました。

でも神さまに祈ると、まだまだダメだとのお答えでした。そんな時でした。イエスさまが原発事故の所に向かわれるお姿がはっきりと見えたのです。そしてイエスさまは私にこう仰いました。

「私はこれから原発事故の所に向かい、終息するように祈る。そして、そこに取り残された人々の所に行き、その人たちを慰め、励まし、共に生きる。」

私は即座に言いました。

「イエスさま、そんなことをされれば被曝されますよ。」

イエスさまはすぐにお答えになりました。

「私が被爆することなど問題ではない。それよりも原発事故が終息するように祈り、取り残された人々と共に生きるのだ。それなのにあなたは私を見捨てて、逃げようとするのか。」

このお言葉を聞いたとき、私たち夫婦はそこに残ることを決意しました。ただ、被曝する事への恐怖は計り知れないものがありました。(後で放射線量が少ないことが分かったのでが!)

私はここで、何か自分が特別な体験をしたとか、偉い者であるかのようなことをお話ししているのではありません。誤解の無いようにお聞き下さればと思います。

この時、私たち夫婦の他は子ども達も一緒に生活しておらず、両親や親戚の人たちも居ませんでした。このことが幸いしました。神さまの備えの中にあったと思います。

また、私が残ることができたとすれば、長い間取り組んできた人格尊厳問題や靖国神社問題が、私を鍛え、耐えさせる力となっていたことを証したいと思います。そしてこの視点は、日本宣教の根底を見据える上で、重要な点だと思います。

少し長くなりましたが、私が申し上げたいことは一点。原発が爆発した時、イエスさまがその終息に向かわれ、取り残され、弱い立場にある人たちの所に向かわれ、その人たちを慰め、励まし、今もそこに止まり、人々と共に生きていらっしゃるという事です。このことが私たちが止まり、支援をさせて頂く原点になったという事です。そして、このことは私たちに共通する原点となるのではないでしょうか。

イエスさまはご自身を犠牲にして、十字架に掛かり、私たちの罪の身代わりとなって死んで下さいました。ここに愛が示されたのです。とするならば、私たちもイエスさまの後に従い、原発の終息を祈り、弱い立場に立つ人たちと共に生きるべきではないでしょうか。

震災後まもなく、日本同盟キリスト教団や各教派・団体から沢山の物資が届くようになり、教会員や近所の方にお分けし、またお届けしました。そのことが口コミで広まり、延べ2000人近くの方が近くから遠くから教会に物資を取りに来られました。

またやがて各方面から多くのボランティアの方が送られてくるようになり、避難所への炊き出し、物資配給などを行って来ました。昨年の秋からは仮設住宅や借り上げ住宅などへ炊き出し、物資配給などを行って来ました。これは私たちをはじめ、どこの教会でも、また牧師達も行い、今日に至っています。

私たちは昨年の4月に「いわきキリスト教連合震災復興対策ネットワーク」を立ち上げ、協力して支援活動をして来ました。今でもそうです。また「いわき食品放射能計測所」を仙台と共に立ち上げ、地域の方々に利用して頂いています。また「福島県キリスト教連絡会」を昨年10月に立ち上げ、福島県全体の情報を共有し、祈り会い、特に放射能問題に取り組んでいます。

一教会、牧師では限界があり、共に協力し合うことが大切です。

あの3.11から1年7ヶ月が経ちました。東北全体の震災後の様子はよく分かりませんが、だいぶ様相も違ってきていると思います。岩手、宮城、福島、北茨城、それぞれに被害状況も復興の進み具合も違うと思います。またそれぞれにおかれている教会、牧師、信徒の方々の状況も違うことでしょう。

ただ共通することは、皆さんだいぶ疲れが溜まってきていることと、これからどんな支援活動をしていったらよいのかよく分からないという事ではないでしょうか。

以下、私の思っていることを幾つか申し上げたいと思います。

第一に、この働きは長期戦だと思い、疲れないことです。それぞれに十分なる休息を取りながら、自己コントロールしつつ、必要な支援活動に当たるという事です。自分自身が疲れてしまっては、もともこうもありません。

第二に、支援活動をあくまでも教会の働きとして継続し、位置付けていくことです。牧師も疲れ、教会員の方も疲れてきます。そして教会の中から、牧師はもっと教会の中に目を向けて欲しい、信徒に目を向けて欲しいという声が出てくるでしょう。そのような時、バランスを取りつつ、なおも教会員と共に粘り強く支援活動を続けていくことです。

第三に、横の連帯を強め、広めていくという事です。具体的には市や町との協力を強め、各NPO団体、市民団体と情報を共有し、協力していくという事です。牧師や教会、或いはキリスト教団体のネットワークだけではやがて限界を迎えることでしょう。

第四に、被災者の方々と共生する、共に生きていくという事です。これは被災者の方に限ることではなく、悲しんだり苦しんでいる人たちと共に生きる、共生するという事です。

「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。」(ロマ12:15)という教えそのものです。

私にとって支援とは何ですか、いつまでするのですかと問われるなら、こう答えます。

支援とはその方と共に喜び、共に泣くこと、そして最後の一人が自立するまでです、と。

徹底的に、最後の最後までその人に寄り添い、自立するまで共に歩むと言うことです。

第五に、福島のことで言えば、今もなお原発事故が終息するように祈り、そこに残り続けている人たちを励まし、慰め、共に生きていらっしゃるイエスさまがおられるからです。イエスさまが被曝されることもいとわず、今も働いていらっしゃるからです。

これが私自身の支援し続ける力となっているのです。

ヨハネは言いました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネによる福音書 3:16)

イエスさまは私たちの罪のため、身代わりとなって十字架に掛かり死んで下さいました。ここに神の愛が私たちに示されたのだとヨハネは言います。

今もイエスさまはご自身が被曝されることをいとわず、苦しみ、悲しみ、病の中にある人たちを慰め、励まし、共に生きようとされているのです。このイエスさまのお姿は福島だけではなく、岩手、宮城、茨城にもいらっしゃるのです。

このイエスさまがいらっしゃる限り、私は、私たちは、イエスさまの後にお従いし、同じように地域の方々にお仕えし続けていきたいのです。

(了)

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「第二回日韓キリスト者信仰回復聖会」に向けて

いよいよ来週、韓国からNCCの皆様がおいでになります。

17日の月曜日に聖会でご奉仕いただき、
18日の火曜日に被災地を視察していただいて、
19日の水曜日に各教会で祈祷会に参加いただきます。

規模としては、月曜日の聖会が、一番の大仕事となります。 祈祷課題は以下のようにまとめられ、大会長の挨拶も定まりました。


  • 祈祷課題

  • 大会長挨拶

  • 東北ヘルプ代表挨拶

東北ヘルプ事務局長は共同実行委員長の任を預かり、準備に携わらせていただきました。その立場から、ご協力いただきました韓国からの宣教師の皆様に、下記のようなお便りをいたしました。多くの皆様の祈りを合わせて頂くことを願い、以下に公開させていただきます。ご高覧を賜れば幸いです。

(2012年9月14日 川上直哉記)

敬愛する宣教師の皆様

インマヌエルの主の御名を称えます。

9月17日が近付いてまいりました。第二回日韓キリスト者信仰回復聖会のためにお祈り下さり、たくさんのご助力を賜っておりますことを、心から感謝いたします。

先日は韓先生が皆様とお会いし、内容などの会議をさせて頂きました。韓先生と共に実行委員長を拝命している者として、心から感謝をいたします。また、その会議の席にどうしても出席できませんでしたことを、改めてお詫び申し上げます。

既に韓先生からお話があったことと存じますが、今回の政界には大きな意味と願いが込められています。そのことを、被災地に働く日本人の牧師の立場から、改めて書かせていただき、いよいよ皆様の祈りを暑くしていただくことができればと願って、メールをお書きしました。

今回第二回目となります「日韓キリスト者信仰回復聖会」ですが、まずその名称自体が、熱心な議論によって生み出されたものでした。

韓国の主にある兄弟姉妹の多くが、2011年の震災の苦しみを、私たち日本人と共に担ってくださいました。そのことを私たちは決して忘れることができません。その大きな働きの中で、日本のキリスト者の魂が疲れ弱ってきていることに、何人もの先生方が気づき、祈りの課題として下さいました。その祈りは結集しました。日韓のキリスト者が祈りを合わせ、互いの信仰を回復するために集う会を開こう――これが、「日韓キリスト者信仰回復聖会」という名前にこめられた思いです。

第一回の際は、韓国基督教総協議会の皆様がお力を貸してくださいました。それは、教会の一致を思い出す尊い機会となったのです。被災地を思うお気持ちが、様々なお立場の方を繋ぐ接続点になるということです。そのことは、私たちの大きな励ましとなりました。被災以来、私たちは助けて頂いてばかりでした。しかし、私たちにも、神様の業に参加する可能性があるということを、第一回日韓キリスト者信仰回復聖会は示したのでした。

そこで、第二回目は韓国基督教教会協議会(KNCC)の皆様にお力をお借りすることを考えました。感謝なことに、KNCCの皆様は、大きな心で私たちのお願いを受け容れてくださいました。キリストにある一致が、被災地において証される。そのことを、私たちは喜んだのでした。

今、被災地は新しい苦しみの中に静かに沈み込んでいるように思われます。津波被災者は、先の見えない生活の中でひへいしています。更に原発爆発事故の被災者は、これから起こってくるかもしれない被害に怯えています。私たちは、今改めて、自分たちの小ささを思い知らされています。そうした中で、「第二回 日韓キリスト者信仰回復聖会」が拓かれるのです。そのことの意味を思います。今こそ、私たちキリスト者は、未来を信じ、人間の心を信頼し、全てを神様が良い方向へと導いて下さることを信じて、絶望に抵抗して踏みとどまらなければなりません。そのために、遠くから近くから、おお君方が参集して祈る時を持って下さる。そのことを、神様の恵みと心から感謝しているのです。

今回、皆様のお力を多くお借りできますことを、改めて感謝します。17日朝9時半に、準備のための最初の祈りが、会場である仙台青葉荘教会で持たれます。お集まりになれる方はもちろん、その時間にはまだ会場にご参集いただくことができない方々も、どうぞ、覚えてご一緒に祈ってくださればと願ってやみません。

以上、実行委員長として、御礼と所見を述べました。

Soli Deo Gloria!

2012年9月14日
第二回 日韓キリスト者信仰回復聖会
共同実行委員長 川上直哉

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「被災地は今」

被災地は、今、どうなっているのでしょうか。

多くの方から、そのように問い合わせを頂きます。

私たちは、困難を覚えつつ、しかし努力して答えをひねり出しています。

被災地は想像以上に広大で、一言で語ることができないのです。

そして、被災地にいると、体験しているはずの激しい変化を語ることが難しくなる。

その意味で、「被災地は今」という問に、なかなかうまく答えることができずにいます。

そうした時、外部の方が残してくださる報告書は、とても役に立ちます。

この度、私たち仲間に、新しい方が加わってくださいました。

秋山胖さんです。

秋山さんは、東京で働いておられましたが、単身、福島県に飛び込み、私たちの仲間として働いてくださることになりました。

神様は、いつも素晴らしい仲間を私たちに送ってくださいます。

秋山さんは、東北ヘルプといわきCERSネット共同運営の食品放射能計測プロジェクトで、特に今立ち上げの真っ最中である「いわき食品放射能計測所」にご尽力いただいています。

その秋山さんと一緒に、7月末の福島・宮城を回りました。

多くの発見と学びを得ました。

その様子を、秋山さんと一緒にまとめることができました。

被災地の一断面を、ある程度の広がりを持った視野で、新しい感性で見るということ、その成果と存じます。

新しい仲間の与えられましたことを喜びつつ、以下に、報告書をご紹介いたします。

(2012年8月1日 川上直哉 記)

【はじめに】


崔先生(左)、川上事務局長(中央)と秋山さん(右)

私、秋山胖(あきやまゆたか)は2011年10月1日から2012年6月15日まで、NCC-JEDROに身を置き、そこでの仕事を通じて多くを学び、たくさんの出会いを経験させて頂きました。2011年10月には日帰りのいわき出張、11月には2泊3日のいわき、南相馬、田村、二本松を巡る出張があり、多くの学びと出会いを経験させて頂きました。NCC-JEDROを去るにあたって、私の多種多様な人脈と私に与えられた賜物とを原発被災地で生かしたいと思い、そのことを口にしておりましたら、東北ヘルプの川上先生がお声をかけてくださいました。

「いわき放射能計測所」の一画に居室を与えられ、生まれてから離れたことのない千葉県市川市から7月17日いわき市小名浜に居を移し、7月18日にいわき市民となりました。

そして、7月21日~22日、川上先生のお誘いを受けて、福島、郡山、南三陸の各地を巡ることができたのです。驚かされ、考えさせられ、そして多くの着想を得た日々でした。

【7月21日 郡山→福島】

<保養プログラムを巡って>

東北ヘルプの車で郡山駅前へ。FCC子ども保養コーディネーター布山真理子さんをピックアップ。車中自己紹介を交わしながら、彼女のご苦労と大きな役割を知りました。彼女は今、東北ヘルプ事務局内にオフィスを構え、福島の子どもを短期間キャンプへお連れするプロジェクトの実行のために、日本同盟基督教団のお立場で、日々奮闘しておられるのです。私は、中学一年から東京YMCA主催のキャンプに親しみ、大学生になって以来今日まで、教育的組織キャンプの指導者として歩み、キャンプに関する書物を著わす機会を得てきました。そんな私が役立てるのかもしれないと、そうした思いを強く感じさせられました。尚、教育的組織キャンプの理論と方法論は、北米YMCAから1920年に日本のYMCAに導入され、日本のYMCA・YWCAのキャンプの土台となっています。

<40mSv/h環境の中で笑顔で働いている女性たち>

布山さんのご案内で、彼女がチャプレンとして働いておられた以前の職場を訪問し、見学させていただきました。生活しておられるご老人方と布山さんとの親交ぶり、働いておられる若い女性たちの明るい笑顔に驚かされました。なにせ空間放射線量の決して低くない環境なのですから。辞去してからの車中で、布山さんから「彼女たちは『福島を愛しているから離れようとは思わない』と語っている。」と伺い、月に一度は礼拝説教のために訪れ続けておられるという布山さんのお話を聴き、率直に心配を覚え、事柄の複雑さを噛みしめました。同時に、私がNCC-JEDROで2011年10月から今日に至るまで係りを持っている「自主避難母子の会in関東」のみなさんの顔が思い浮かび複雑な思いが交錯しました。

<「命の水プロジェクト」システム構想力とリーダーシップのあり方とチームワークと>

その後、韓国等の支援を得て500ccペットボトル水を無料で必要とする人に届け続ける「命の水プロジェクト」の現場に行きました。このプロジェクトに、この夏から、東北ヘルプも参加しているのです。郡山駅そばの現場には、14時少し前に到着しました。14時~15時が配布予告時間ということでした。大量なペットボトル水ですから、かなり大きな倉庫が必要で、水をもらいに来る人々の駐車スペースも必要です。しかし、集まった方が非常に多く、駐車場が溢れるほどでした。需要の高さ・必要の切実さを伺わせる光景でした。


  • 水配布再開をお知らせするチラシ

  • 「母親サロン」交流の場として

  • 会場に張られた案内

現場にはポスターが書かれており、「妊婦さん」「乳児を持つ人」・・・と、何段階かの配分基準が明記されていました。会員制を採用して必要な人に必要な水が届くような工夫がなされていました(会費は倉庫借用料等にあてられています、とのことでした)。整理券が予め配られており「順番が来たら携帯電話でお知らせします。」とのアナウンスが聞こえます。交通整理をしている人がいます。その人こそ「命の水プロジェクト」のリーダー・坪井牧師でした。

韓国からの水の補給が一時途切れ、数週間ぶりに再開した今日、ということでした。再開ということで水を求める人がドッと押し寄せたのでしょう。そこには、福島県内に住む母親たちの不安と苦悩がよく表れていたように思われました。

<郡山ルーテル教会で>

布山さんのご案内で、福島いずみルーテル教会へ伺いました。「メサイヤ」の練習からお帰りになられた野村牧師や教会の方々とお会いすることができました。そこで、日本聖書協会主催のメサイヤ公演がなされることを知りました。私はNCC-JEDROでこの催し物のための資金獲得のお手伝いをしていたのですが、残念ながら海外からの支援は頂けずにいたのです。日本聖書協会の力に驚かされました。

<7月22日 南三陸>

川上先生の教会の礼拝に出席し、昼食をいただいた後、PCK宣教師である崔先生とそのご夫人である許さんと共に4人で南三陸へ。24世帯の仮設住宅前の広場に、4つのテントが立てられた「赤ちょうちん de Monk」の会場へ到着しました。大徳寺住職・橘師・通大寺住職金田師が、「心の相談室」の活動として、若い修行僧たち共に、夏祭りのような催事を企画されたのでした。その日は「赤帽さん」と呼ばれる赤いキャップを被った東京災害ボランティアの若者たちも一緒でした。手際よく準備は進み、かき氷、酒、ビール、コーヒー、ソフトドリンク等と、焼き鳥、焼きそば、フランクフルトソーセージ、お好み焼きなど、食べきれない量の品々が用意されました。


  • テント設営中

  • 相談しながら準備を進める

  • 南三陸の方々と共に

  • 挨拶をされる秋山さん

  • 集まってくださった方々

参加者は、昨年、仮設住宅で生まれた乳児さんから、最長老90歳の老若男女。自治会長はパーマ屋さんの菅原健次さん。川上先生から詳しく仮設住宅の必要について話を伺っていました。私も、「傾聴」というより、失礼にならぬよう配慮しつつ色々お尋ねしました。その中で「位牌がほしい」との声がありましたから、その話題を繋いで行きますと、自治会長婦人が取りまとめ役となり、金田師がお世話くださるという展開になりました。仮設住宅でのコミュニティ形成の一典型、と認識しました。会の終盤、私は、ジャンケン遊びのリードをさせていただきました。自治会長さんの店名が「ぐうちょきぱあ」であることに因んでのことです。

<7月23日 お母さんの心と体のお茶っこの会>

お茶っこの会準備委員会の川上恵さんとの会話で、食材購入に大層心をくだいておられること、また、好ましい食材を仕入れ販売して純益をお茶っこの会経費としたい、と考えておられることを知りました。川上恵さんのご意向と私の人脈を繋げると、北海道赤井川村のトウモロコシ、カボチャ、ジャガイモ、徳島のサツマイモとスダチ、そして大分県のカボスが考えられます。これから、私も微力を尽くしてみたいと思います。

【おわりに】

沢山の出会いと見聞がありました。私が役立てそうだとの思いを強くしました。しかし、先ずは「いわき放射能計測所」を軌道に乗せなければ、“帰りなん、いざ!”との思いで、23日仙台からいわき行のバスに乗りました。

(文責:秋山胖・川上直哉)

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1年を振り返って

震災から、一年が経ちました。

私個人のことを考えてみれば、東北ヘルプの事務局長として、あるいは、宗教間協力の支援組織「心の相談室」の室長補佐として、過分の役割を神様に与えられました日々も、一年を過ぎようとしています。

そうした中で、「中外日報」という新聞の記者の方から、メールでインタビューを頂きました。メールで応答を書きます中に、この一年間を振り返る機会を得ましたので、その内容をかいつまんで皆様に御紹介し、一つの被災地の証言とさせて頂こうと思います。

(2012年4月1日 川上記)

〇〇様

メールを、拝受しました。味わい深く拝読しました。

いくつもの質問を賜りましたので、微力をふるってお応えしてみます。

> ▼この1年間を通じて、川上が宗教者、キリスト者としてのアイデンティティが揺らいだことはないか。あるいは、信仰が揺らいだことはないか? 震災から49日目の日に、僧侶と共に南三陸での海岸行脚をしたこと、そして3月1日に再び行脚をしたことを聞いて興味を持っているが、それによって信仰が強まった、あるいは別のステージに変化したというようなことがあれば、その内容を教えてほしい。


「四九日」の行脚は、「良い思い出」です。ただ、そのことで誰かと何かディスカッションをした記憶は、私には、ありません。


(共同通信2011.5.11)

あの体験は、言葉にしにくいものでした。歩く途中、讃美歌を記憶の中から引き出して歌いました。その際、どの歌が良いのか、歩いているその場面と引き合わせ、探りながら歩きました。それはきっと自分の内面を見つめる作業であったように思います。

そして、一つの大きな変化を、「三月一日」の行脚で、見出しました。その日、私たちは、「四九日」に引き続いて二度目の「行脚」をしました。そしてその時、その印象は一回目と全く変わっていました。

「四九日」の行脚には、悲しみの中でも断固として平安を呼びかける歌等が、よく似合った(歌っていて馴染んだ)という実感があります。しかし、「三月一日」には、そうした歌は意味を持ちませんでした。歩いたコースは、同じだったのです。しかし、歩いた場所の空気は、全く違っていました。

行脚は、南三陸の海岸を二時間半歩くコースをたどりました。「四九日」の際、そこには悲しみと絶望が吹き溜まっていました。しかし「三月一日」に、そこは復興の蠢動を感じさせる場所となっていました。

「現場」はもうここにはない、と思いました。

たまたまその夜、道に迷って、矢本(東松島市)の大きな仮設住宅に、自動車で入りました。三月とはいえ、その夜はまだまだ寒く、仮設住宅群は沈黙の底に沈んでいるように見えました。そこには、「現場」がありました。

「四十九日」と「三月一日」の二回の行脚において見出したのは、「現場」の移動です。それは、はっきり、見事なまでの、移動でした。この変化に対応しなければ、きっと、大きなミスマッチが起こるのだろうと思いました。

行脚を通して信仰が強まったかどうかは、よくわかりません。ただ、宗教者としての自覚は強まったと思います。信仰を外在化させ表現する手段が、つまり、宗教だと思います。その意味では、信仰は強まったのかもしれません。

一年間を通じて信仰が強まったかどうか、と問われますと、やっぱり、よくわからずにいます。ただ、宗教者としての自覚は、強まったと思いますし、近しい人からもそう言われます。

信仰は、自分自身そのものでもありますから、客観視できません。ただ、それを外在化する宗教は、これを確認することはできるように思います。そして、宗教者としての自覚と矜持は、はっきりと、強まったように思います。

キリスト教においては、信仰は与えられるものだ、という理解が一般的だと思います(新約聖書まで、その思想は遡り得ます)。従いまして、信仰は、自らの中にあるものを新しく発見しなおす、というものであると思われます。震災は、私の中に与えられた信仰が一体何であるかを、新しく知る機会となりました。それは、キリスト教という宗教において外在化し、目に見えるものとなったようです。

振り返ってみますと、キリスト者としてのアイデンティティは、確かに強まりました。それは、仏教者等との出会いによって、一層強まりました。そして更に、そのアイデンティティによって、他者である仏教者への尊敬の念を抱くようになりました。そうできたのは、同一の課題(被災現場)に向き合ったからだと思います。他者と同一の課題に向き合う時、他者を尊敬することができる(軽蔑することも、多々ありそうですが)と思います。

> ▼「心の相談室」などで活動していて、もともとの川上さんの教会での生活、リズム、行動パターン、信者さんとの関係などはどのように変化したか? それは、以前と比べてどちらがいいと思うか?


「教会での生活」についてですが、もともと、私の仙台市民教会は、日曜日午前しか「営業」していない零細教会でしたので、結局あまり変わらないように思います。ただ、聖書が全く違って読める体験をしています。それは、礼拝の質を変えたと思います(これは、手前味噌です)。また、宗教者としての自覚がはっきりしましたので、儀式などへの姿勢が変わりました。

「信者さんとの関係」ですが、基本的に、仙台市民教会の皆様や、私に関わりを持ってくださっている多くのキリスト者の皆様は、私の働きを喜んでくださっています。ただ、津波被災から遠く離れたところにお住まいの方などは、「地震津波だけが災害ではない」との思いを強め、しばしば戸惑い、あるいは苛立っていたかもしれません。

ということで、牧師と信徒との関係、ということでは、震災前後であまり変わりないように思います。

> ▼「心の相談室」としての電話相談は、現在も担当しておられるようだが、相談内容は、1周年を迎えてどのように変化したか? 典型的な例も(個人情報を伏せたうえで)教えてもらえれば。また、以前にも相談された方で、最近、変わったというような例も。そして、その理由は何か?


最初、電話は、被災地からは、ほとんど、かかりませんでした。新聞を見、あるいはNHKラジオを聞いて、遠方から電話くださる方がおられたのが、最初の状況でした(ラジオも新聞も、仙台では放送・配布されなかったのです)。

東北被災三県のFMでラジオ放送を始めた10月が、転機となります。次第に被災地からの電話も増えました。今では、開設時間中、電話が休む暇のない状況です。

相談の特徴は、「他の電話相談などで心が満たされないのでかけました」というものが多くあった点に確認されます。「ただひたすら聴く」というスタイルは、ある種の方々にとっては、不全感を残すものであるようです。私たちの電話相談は、宗教者ですから、こちらからの説話(説法、説教)が出てきます。それを止めさせることは困難ですし、そんな必要もないと思っています。ただ、そうした対応が持つリスクを理解することと、そのリスクを回避する技術は、電話を受ける宗教者がそれぞれ獲得する必要があると思います。それが、つまり、「実践宗教学」という学問になっていくのだろうなと、そう思います。

電話の内容は、「死者をどう自分の中で位置づければいいのか」という問題と、「怒りや憎しみをどう抱えて生きていけばよいのか」という問題が、多いように思います。いずれも、目に見えない・客観視できない問題ですが、確かに「そこにある」問題で、すっきりとした解消は困難であり、その問題を抱えて生きざるを得ない現実への対応を求められる、そういう問題への対応を相談されているのだと思います。

もちろん、もっと単純な事例もあります。

たとえば、岩手の沿岸にお墓を持っていたが、津波で流され、仙台に引っ越してきた、という仙台在住の方は、お墓の移転を考え、菩提寺のご住職と相談し、よい寺院を紹介くださいと、電話をくださいました。これは私が受け、すぐに信頼できる和尚様に連絡し、話はすぐに落着しました。

もっと複雑で、そして、繰り返される相談の中で、相談者が変化して行く、そういうパターンも、多くあります。受容し、傾聴し、しかし、自分の意見も言う、ということに慣れているのが、宗教者の強みです。そうした態度が、ゆっくりとした変化を生み出すように思うのです。

> ▼先日、東京で行われたシンポジウムで発言されたこと、例えば「被災者同士の対立」など、現時点で深刻な問題について、お考えを。


対立は、結局、復興と共に起こっているのだと思います。

震災は新しい地平を拓きました。その拓かれた地平に、新しい仕切りが生まれようとしている、それが復興であって、その陣地取りに伴い、対立が生まれているのです。

宗教者の仕事の最大のものは、和解をもたらすことだと思います。今、私たちの仕事が問われています。

長々と、書きました。書くことで、自分の中身を確認させていただいたように思います。お読みいただけたことを、心から感謝いたします。

それでは失礼します。

どうぞ、この拙文が、よい記事に資するメールとなりますように。

川上直哉

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2012年3月18日 東北ヘルプ一周年記念礼拝


集合写真

2012年3月18日に、日本基督教団東北教区センター「エマオ」にて、「仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク(東北ヘルプ)」の一周年記念行事が行われましたので、ご報告いたします。

2011年3月18日は、東日本大震災発生からちょうど一週間が経った日でした。その一週間に、数え切れないほどの余震と、数日前の福島第一原子力発電所の事故、そして長年仙台キリスト教連合を支えてくださったラシャペル神父の死がありました。

そして誰もが、震災で多くの人が傷ついていることを思い、「わたしたちは何かをしなければならない」と、仙台キリスト教連合の緊急会議に集まったのでした。

そして会議が開かれ、「仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク(東北ヘルプ)」が立ち上がるのです。

あの日から早くも1年が経ちます。2012年3月18日午後2時から、感謝報告会と記念礼拝が開催された次第です。

東北ヘルプ代表・吉田隆(日本基督改革派仙台教会牧師)の挨拶によって、記念の会は始まりました。吉田代表は、東北ヘルプがこのように立ち上がり、活動できたことに働く神の摂理と多くの人の支えに感謝しつつ、しかし次のように述べました。


挨拶をする吉田代表

「1年が経ちました。しかし1年を過ぎても被災された方の苦しみは何も終わっていない。これからの歩みを大切にしたいと思います」――挨拶を聞くわたしたちも、同じように思いを新たにしました。

それから東北ヘルプ理事井形英絵(日本バプテスト連盟南光台キリスト教会牧師)の司会により、記念会が二部構成で始まりました。

第一部は感謝報告会でした。それは、東北ヘルプ理事の三枝千洋(日本基督教団陸前古川教会担任教師)の祈りで始まりました。

事務局長の川上直哉(日本基督教団仙台民教会牧師)から、東北ヘルプ1年間の活動報告がなされました。震災直後の避難所への支援に始まり、被災教会への義捐金支援、教会間のネットワーク作り、姉妹教会プロジェクト、仮設住宅での働き、そして多くの関係団体との間に生まれた繋がりが、そこに報告されたのです。


  • 報告をする川上事務局長

  • 報告をまとめたパネル展示も行いました

また食品放射能計測プロジェクト、外国人被災者支援といった、現在わたしたちが注力させて頂いている「現場」の状況について報告があり、また今後の見通しが語られました。

震災から1年が経ちますが、未だ支援が必要であること、あるいは時間が経ってきたからこそ、支援の必要性が高まっているように感じました。

これまで東北ヘルプの活動は、こちらから働きかけるのではなく、苦しんでいる方と共にいて、その方が声を出されることを待つという姿勢で進められてきました。それはこちらのやり方を現地に当てはめるのではなく、常に「現場」と向き合いながら、その都度必要なものを作り上げるという作業です。そのような歩みをもう一度確認しつつ、新しい一年の祝福を祈りました。

その後はそれぞれの働きをねぎらい、分かち合い、互いに感謝する時となりました。それには共に笑うことがもっともふさわしいように思います。それで、私たちは、仙台東一番町教会員、今野家東師匠(参議院議員の今野東さん)の東北弁落語に耳を傾ける時を持ちました。

今野さんは、塩釜出身。宮城県内でアナウンサーのお仕事をされていた方です。今野さんはアナウンサー時代、地元の方と触れ合う中で、一つの発見をします。それは、東北弁の虐げられ続けてきた者の粘り強さと“ぬくみ”です。そして、何とかこの言葉の持つ伝統とメッセージを伝えたいと感じるようになります。その中で関東の江戸弁による「落語」、関西の関西弁による「上方落語」、それらに対する東北弁による「東方落語」を始められたのでした。

この日は、動物園でのアルバイトをテーマにした落語をお話しいただき、わたしたちは心から笑い、また東北弁の“ぬくみ”を堪能しました。


  • 噺をしてくださる今野家東師匠

  • 会場は大いに盛り上がりました

第一部は、東北ヘルプ理事 秋山善久(日本同盟基督教団仙台のぞみ教会牧師)の祈祷で終了しました。

少しの休憩の後、第二部の記念礼拝が始まりました。

ここでも普通の礼拝とは異なる趣向が凝らされていました。それは講談師・神田ナザレさん(日本基督教団駒澤教会牧師・北川正弥師)による聖書講談です。

聖書の箇所は、旧約聖書のモーセの物語でした。共に、モーセをナイル川に流さなければならなかった両親の苦しみに心を痛め、モーセを拾った王女の決断の気高さに感動し、その後のモーセの成長と挫折、そして落ち延びたミディアンの地での出会いが、彼にとってどのようなものであったのか。神田ナザレさんは、生き生きと、臨場感あふれる語りで演じてくださいました。

豊かに聖書の物語を味わった後に、北川師より、説教が語られました。北川師は、モーセに思いを馳せます。モーセは人間として素晴らしい才覚と、恵まれた地位、そして優れた人品を兼ね備えていました。彼には何の不足も無かったはずです。しかし、北川師は言います。そんなモーセでも持っていないものがあったと。モーセが持っていなかったもの、それは隣人です。

一体、誰がモーセの隣人であったのか。モーセは王女の養子として、王宮で暮らしていました。たとえ王子として扱われようとも、彼は王宮の中で孤独でした。さりとて、同胞であるイスラエル人もまた、彼を仲間とはしません。イスラエル人は彼のことを、王宮の中で安穏と暮らす、自分たちの苦しみを理解しない、他者と見なしていました。モーセは多くのものを持っていましたが、しかし隣人だけは持っていなかったのです。

そうして、彼はエジプト人を殺してしまい、追われる身となってしまいます。それまでの栄光とは違う、苦難と喪失と失意の中で、彼は絶望したでしょう。しかし、そのときはじめて、モーセはミディアンの地に住む人々という隣人が与えられたのでした。一度は絶望したにもかかわらず、こうしてモーセはミディアンの地で生きるようになったのでした。これはなんとも不思議です。

北川師は語ります。神は絶望したモーセに隣人を与え、「わたしはある」とご自分を明らかにされた。今、震災という苦難を前にして、多くの人が絶望し「神などいない」と言っている。だからこそ、「神はある」「希望はある」と、絶望している人に示す隣人が必要なのだ、と。

そうして、さらに北川師は語ります。いろいろなところで、講談と説教を頼まれる中で、以上のようにわたしはお話しをさせていただいている。東京では共感していただけた。関西でも同じように共感していただいた。あるいは九州や四国でも同じように感じていただけるだろう。しかし今日、この仙台の地に来る中で、わたしはどのように話せばよいのか分からなかった。なぜならわたしは震災を経験していない。震災の中で生きる人たちにどのように語ればいいのか。被災された方と共にいる皆さまは、そのことを誰よりもご存知のことと思う。わたしには分からない。しかし、そのように分からない中でも、わたしは被災された方や、それを支える方の隣人として歩みたい。

北川師は、私たちに、そう語りかけてくださいました。

講談で大いに笑い、心を燃やされ、最後には北川師の謙虚さと優しさに触れさせていただき、誰もが涙を流していました。


  • 神田ナザレさん(北川師)

  • 講談と説教に耳を傾ける職員。
    東北ヘルプを支えてくださっている方々です。

最後は、仙台キリスト教連合を立て上げ、長年支えてくださっている、仙台キリスト教連合・世話人の杉山昭男師から祝祷を受け、礼拝が終わりました。


祝祷をする杉山師

その後、茶話会をして互いにねぎらい、親睦を深めて、会は閉じられました。被災された方のこの1年の苦しみに思いを馳せ、東北ヘルプの一年の歩みを振り返り、そうして互いに新しい一年の祝福を祈る、素晴らしい会でありました。


  • 茶話会の様子(1)

  • 茶話会の様子(2)

わたしたちの活動は、吉田代表の冒頭の挨拶の通り、「神によって用いられてきた」ものです。被災の現場では、日々新しいことが起こります。多くの苦しみや絶望に道を見失ってしまうこともありますが、しかし同時に、現場を見つめる中で、良いことや喜びが、ほのかにきらめくことがあります。決して楽観することはできません。しかし、そのきらめきを忘れないようにしたいと思います。あるいはわたしたちのそんな姿が、絶望を見つめる他ない人々に、それでも「神はある」と、証しすることになるのかもしれません。

ここまでの東北ヘルプの歩みを、多くの方が支えてくださったことに心から感謝をいたします。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

(2012年3月23日 阿部・川上記)

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東北ヘルプ発足とラシャペル神父

東北ヘルプは、一人の神父の昇天から、その胎動を始めます。それは、ちょうど一年前の今日のことです。2011年3月15日(火)、仙台元寺小路教会で、一つの通夜(前夜式)が行われました。それは、アンドレ・ラシャペル神父のものでした。

その頃、被災して止まった火葬場が、やっと稼働を始めたばかりでした。そして、幸いにして身元が判明したご遺体が、順に火葬されることになりました。その一人が、ラシャペル神父でした。

ラシャペル神父は、3月12日の朝、塩釜の道端に倒れていました。

不思議なことに、その胸ポケットにはパスポートがあり、すぐに、身元が判明したのでした。ラシャペル神父は、仙台キリスト教連合の世話人でした。

それで、15日の通夜に集まった250人の弔問客の中に、仙台キリスト教連合の代表と庶務担当の二人がいました。この二人が、通夜の席で会い、情報を交換し、一つのアイデアを共有します。それが、結局、「仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク(東北ヘルプ)」へと稔ります。その発足は、3月18日木曜日の夜のことでした。

あれから1年が経つのです。

日本中で、「1年」と、言葉をかけあいました。被災地において、「1年」に、どれほどの意味があるのか、実は、私にはよくわからないでいます。

何も終わっていません。否むしろ、何も始まっていないのかもしれない。

それでも、1年が経ちました。今日、ラシャペル神父の通夜から、1年が経ちました。「東北ヘルプ」のアイデアが生まれてから、1年が経ちました。

逝去した方を忍び、そのいのちの遺したものを見つめること。それが、きっと、記念日のあるべき形だと思います。そうする時、亡き人のいのちの残り香が、その足跡に、薫っていることに気づく。そんなことを思いながら、一つの説教をご紹介します。

それは、今年の新年一致祈祷会で、「東北ヘルプ」三枝理事が語ったものです。それは、ラシャペル神父を記念する説教となっています。記念することの意味を思い出しつつ、以下に、ご紹介いたします。

(2012年3月15日 川上直哉 記)

2012年 キリスト教一致祈祷週間 一致祈祷会

会場:仙台元寺小路教会(カトリック)

聖書 ハバクク書3:17~19

Ⅰコリント15:51~58

ヨハネ12:23~26

説教 三枝千洋 (日本基督教団 陸前古川教会 副牧師)

あの日(2011年3月11日)。アンドレ・ラシャペル神父は、ここ、 

カトリック元寺小路教会から塩釜へと向かった。

その日の神父は、ひどく体調が悪かった。

だから多くの人が、神父の無謀とも思える行動に反対した。

しかし、それでも、ラシャペル神父は塩釜へと向かった。

震災が起きた街の道路は、大渋滞となっていた。

人々は、自分の家、自分の家族、自分の安全なところを目指した。

しかし彼は、安全なところから、津波に襲われている塩釜へと向かった。 

ラシャペル神父を向かわせたのは何か

神父は、「教会に信徒が逃げてくるかも知れない」と言い残している。

塩釜に向かったのは、彼の羊を守るためだった。

主キリストから託された、自分の羊を目指した。

そして、彼の地で神に召された。 

大勢の震災犠牲者に寄り添うように。

「私の羊を飼いなさい」とおっしゃった主の命に、最期まで忠実に生きた人だった。

Quo Vadis ――。

今年の一致祈祷会の式文はポーランドの諸教会が用意して下さったものなので、ポーランドの作家(ヘンリク・シェンキェヴィチ)による歴史小説を引用したい。

Quo Vadis ――。

使徒ペトロの言葉だ。(もともとはヨハネによる福音書にある)。

日本語版では、「主よ。 何処へ?」と訳されている。

これは、ローマに向かう復活の主イエスを見つけた時の台詞。

ペトロはこの時、迫害を逃れ、ローマから逃げ出そうとしていた。 

しかし彼は、これが御心に適わないことを悟り、ローマに引き返す。

復活の主に出会った人は、方向性を変える。

主の墓で主に出会った女性たちもそうだった。

エマオへの途上で主と語った弟子達もそうだ。

そして、方向性を変えた人々は、福音を携えて命がけで歩き始める。

ここ元寺小路で起きた出来事は、Quo Vadis ではなかったか。

神父は、ここに留まることもできた。 しかし、命がけで歩き始めた。

「死が終わりではない。死とは、神に見捨てられた結果の終わりではない。」

ラシャペル神父は津波に襲われている塩釜に、

この福音を携えて向かったのではなかったか。

ラシャペル神父は、主に倣う者として、

主から託された羊を見捨てることはできない人だった。

ラシャペル神父は、「そこにいる人」だった。

ただ「そこにいる」。

寄り添う。

その深い意味を知っている人だった。

聖ウルスラ学院の、愛する教え子達の中に彼はいた。

仙台キリスト教連合の中に彼はいた。

世界食料DAYの中に彼はいた。

被災した塩釜に彼はいた。 

・・・「そこにいる」ことを願った。

カトリック、プロテスタント教会からなるエキュメニカルな連絡会である仙台キリスト教連合の諸教会は、思いを一つにしてラシャペル神父の死を悼んだ。そして3月18日、主イエス・キリストにある仙台の諸教会の群れは、ラシャペル神父の願いに突き動かされるように、被災支援ネットワーク東北ヘルプを、祈りによって生み出した。  

また今も、東北ヘルプは祈られて被災地にあり、東日本で活動するキリスト教系ボランティア団体を繋げ、被災者に寄り添っている。

ラシャペル神父という一粒の麦が、死んで、東日本一杯に拡がる麦穂の波を揺らせるまでになっているのだ。

多くの人が津波にのみ込まれ、地震によって痛み、放射能に怯えている。確かに恐ろしい出来事が起き、今も続いている。しかし、私たちは絶望することはない。

「死は勝利に飲み込まれた」

死人の中から初穂として甦られた主を信じ、その御言葉を与えられているからだ。

このことこそ、ラシャペル神父が塩釜にもたらした福音であり、私たちキリスト者が、この被災地にあって、証ししなければならないことだ。

神よ、あなたはわたしたちの力。

願わくは、御心にかなう歩みをさせたまえ。

三枝師より、追記です:

今年の新年一致祈祷集会の式文を用意して下さったポーランドの兄姉に、そして彼らに御言葉を与えたもうた神に、感謝いたします。被災地にある諸教会の諸兄姉と共にこの一致祈祷会をいたしましたが、選ばれた御言葉、祈りの言葉の一つ一つに、ポーランドの兄姉が被災地に住む私たちに届けようとなさった思いをひしひしと感じることができました。

ポーランドの国民が辛い歴史を乗り越えて来られたように、私たちも今ある厳しい現実に負けないように、主イエス・キリストの父なる神に祈りを献げながら歩んでいきたいと思います。 ありがとうございました。

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