弱さを結び目として
Café de FUKUSHIMA 活動報告



「Café de FUKUSHIMA」石川さんの活動報告をお送りいたします。

震災から6年8か月が過ぎております。
この時間は短いものか、長いものか、判断のつかない思いを抱いています。

一方で震災の影響はまだまだ深く残されています。
多くの課題が手つかずであったり、
今まで見逃されていた問題に直面している。
震災からの復興のために、時間は全く十分ではない。
そんな被災者の姿が見受けられます。

他方、被災直後のままで生活をされている方はもうおられないでしょう。
避難所に移り、仮設に移り、
新しい場所での生活を始めなければならない。
その度ごとのさまざまな苦労や問題があり、
それがやっと落ち着いたころに、
復興の先の新しい問題が見つかる。
それがこの6年8か月余りの年月です。
震災という出来事の傷の深さを改めて思わされます。

一つ言えることは、
復興を目指す中で十分に注目されなかった
(あるいは復興のために目をつぶる他なかった)問題が、
今こそ表面化しているということです。

キリスト教は共同体の中にある「弱さ」を大切にします。
その意味を改めて考えさせられる思いです。

わたしたちは世界を生きる中で多くの不足や弱さをもち、過ちを犯します。
その多くの欠けや不足がある中を互いにどう補うことができるか。
それがキリスト教共同体と信仰者の「奉仕(ディアコニア)」の
真の中心にある問いです。

聖書は、互いに持っているものを分かち合うことを
わたしたちに勧めます。(新約聖書 使徒言行録2章43節以下)
持っているもの、と聞くとき、
わたしたちはどうしても強いもの、豊かさ、
わたしたちの目に価値あるものを想像します。
ですが同じように
わたしたちは弱さをも分かち合うことができるでしょうか。

なぜなら、その弱さを支えるために生み出されるものは、
弱さを抱えた人を結ぶために
弱さがあることを理由にその人を放り出さないために、
その足掻きの中で探され、生まれる力です。

弱さを支えるために生み出されたものは、
労苦を共にする中での共感を形にしたものです。
そしてそれはそれまで弱さのゆえにはじき出されていた人たちに、
確かに届くものであるはずなのです。
そしてそれは、弱さを結び目としなければ、
決して生まれえないのではないでしょうか。
そうであるなら、わたしたちは弱さをも恵みとして、
「用い合わなければならない」のではないでしょうか。

支援者も決して十分な蓄えがあるわけではありません。
ですが被災者と共に、互いの弱さを分かち合いながら、
「ここで」「共に生きる」ことを模索していく。

もし弱さを分かち合うことができるなら、
弱さからも多くのものが生まれる。
いえ、強さや豊かさから生まれるものよりも
もっと確かで豊かなものが生まれるのではないでしょうか。

石川さんのレポートを拝読させていただき、
このことへの模索は、未だ被災地で続けられている。
そのことを深く感じさせていただいております。
これからも長く続けられていくのでしょう。
そしてその試みを繰り返し続けていくことが大切なのだと思うのです。
アドベントを前に、主の祝福が皆様にあることを祈っております。

(2017年11月30日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)





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