地域のつながりと自立・生きる力
Café de FUKUSHIMA 活動報告
Cafe de FUKUSHIMA・石川和宏長老の活動報告をお送りします。
被災支援の目標とは何でしょう。
その目標の一つは、被災者、被災地の自立ということができるでしょう。
もともと被災者、被災地は自立しておられた方にほかなりません。
その方々が今一度ご自分で、生活を決定し、自活することが、被災支援の中で目指されています。
そのためには地域のつながりが大切になってきます。つながりは人の生きる力を支えてくれるからです。
石川長老のお働きでも、このことを大切にされておられるようです。
被災地の方々の自助として、自治体がどのように運営されているか。
またその働きがどのように再建されていくか。
どうぞ皆様の祈りに覚えていただければ幸いです。
(2016年5月23日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)
2016 年 4 月 30 日 Cafe de FUKUSHIMA 石川和宏
*報告期間:2016 年 4 月 13 日(水)~4 月 21 日(木)
*報告期間:2016 年 4 月 13 日(水)~4 月 21 日(木)
◇2016 年 4 月 13 日(水)a.m. 横浜発 (荷物の搬入・食料等翌日の準備)
【1】2016 年 4 月 14 日(木) 福島県伊達郡国見町 「上野台」・「大木戸」仮設住宅
上野台は、26 戸建設 17 戸在住。大木戸は 12 戸建設 8 戸在住
全員が飯舘村から避難している方々 2015 年 7 月以来 2 回目の訪問
飯舘村役場生活支援対策課の仲介
国道 4 号線に近い上野台運動公園にある。JR 藤田駅からも近い。
自治会長は佐藤さん、管理人も佐藤さん。共に手伝って頂いた。
この仮設は、サマリタンハウス(山元町)から一般道路だけで行くことができ、道路が空いていれば 1 時間以内で行ける。(往復は白石経由で、自分が卒業した小学校や中学校の横を通る。)
提供したもの:昼食(豚汁)・カフェ・DVD 上映(綾小路きみまろライブ第3集)・庖丁研ぎ。(18 日以降は、これに腹話術が加わる)
奉仕者 佐々木節子姉(*) 石川和宏
* シンガポール在住(シンガポール在住のクリスチャン)。東北ヘルプのホームページを見て Cafe de FUKUSHIMA を知り、手伝いに来てくださった。
支援の結果
参加者数 11 名(内男性 1 名)
庖丁研ぎ 10 世帯 10 本
豚汁 10 リットル、ご飯 9 カップ
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
放射能からの避難・被曝
・地震でサッシの戸が動いた。瓦が落ちてきた。
・鹿沼に行った。会津に避難した。
・村の避難指示が遅れ(*)、我々は、簡易水道の水を飲み続けていた。
* 政府は飯舘村に放射線の専門家を派遣し、住民に話をした。村報によると、長崎大学教授の高村昇氏は 3 月 25 日、住民約 600 人に対し、屋外でマスクを着け頻繁に手を洗うなどの予防措置を講じれば安全な生活を続けられると述べたという。高村氏は最近、同村の放射線量が健康リスクの閾値とされる 100 ミリシーベルト未満だったと述べている。
同月 28 日、京都大学原子炉実験所の助教で原子力に反対する今中哲二氏の率いる独立系のグループが飯舘村を訪れ、150 カ所以上で大気と土壌を検査した。ある地点では、1 日 24 時間立っていた場合の積算被ばく量が 1 年で 160 ミリシーベルトと、基準の 100 ミリシーベルトを優に超えた。他の地点では線量のずっと低いところもあった。(出典:曖昧な科学で遅れた放射線「ホットスポット」飯舘村の避難区域指定 THE WALL STREET JOURNAL 2011.08.01)
5 月 15 日 - 政府指定の計画的避難区域で計画的避難が開始され、初日は飯舘村民および川俣町民の、乳幼児がいる 18 世帯・113 人が区域外へ移動した(飯舘村民の移動先は福島市)(出典:Wikipedia)
除染と帰村
・来年 3 月に「帰村宣言」出すと思う。
・田んぼは、反当たり 35,000 円の補償金が出ている。いつまで出るかは分からない。
・除染しても 1 年経つとまた出てくる。
・裏山の除染は、20mでなく 10mしかしない。
・屋根瓦は、拭いて除染するが、それでは線量はなくならない。
・(本来は手で拭く除染作業を)水で流しているのを見たら作業をさっと止めた。
・足場だけ掛けて、(除染したことにして)1 週間で外すこともある。
・除染作業は、9 時~4 時で、一服(休憩)の時にはバスで事務所に戻る。
・本来は、高い山から除染を始めなければならないのに。飯舘は山だらけだ。
・除染が不十分だと指摘したが、「その内行きます」と言って未だ来ない。
・村に戻るか否かは、それぞれの部落毎でまるで違う。1/3 の所、26 世帯注 4 世帯しか戻らないところ、まるっきり戻らない部落もある。
・今年中にハウスを建てて花を作る予定。
・家の前に大きな桜の木が 2 本あったが、除染で切ってもらった。後悔している。
・かつての線量計が、「故障中」になり、取替えたら線量が下がった。
・リンドウ・グラジオラス・スターチスなどを作っていた。飯舘村は、冬にはマイナス 20℃の日が一週間続くこともある。寒暖の差が大きく美しい花が咲き、野菜もおいしい。
現在の生活
・自治会として、ひな祭り・夏祭り・クリスマスなどを行っている。
・行ったり来たりで二重生活になる人もいる。
・家は住めなくなったので、壊す。
・ここに 5 年居たら脚が思うように動かなくなってしまった。以前は野菜も作っていたが…。
・ジャガイモを植えたが、イノシシに掘られ喰われてしまった。花の球根も喰う。水仙は喰わない。
・柿がなっても猿に取られる。
・猿は、白菜やネギも喰う。トウモロコシの茎に登ってジャンプする。電気柵も役にたたない。
・村では家族 9 人で暮らしていた。今は 3 つに分かれてしまった。
その他
・ヨガ教室を毎月開いている。今回の支援はヨガ教室に続いて開催した。
・「おれらは、原発とは関係なかった(のに…)」も皆さんの気持ちである。
・飯舘で生まれ飯舘に嫁ぎ暮らしていた人たちで、「放射能のない飯舘に戻りたい」が一致した心境である。
・とても雰囲気が明るい。除染のいい加減さの話になると、止めどなく出てくる。
【2】2016 年 4 月 15 日(金) 二本松市 「建設技術学院跡」仮設住宅
建設技術学院跡仮設住宅は、30 戸建設 15 世帯在住で住民は 20 人、2 人世帯と単身が半々。
二本松市郊外の里山にある。
全員が浪江町から避難している方々 2015 年 7 月以来 2 回目の訪問
浪江町役場生活支援課避難生活支援係の仲介
自治会長は鎌田さんほか皆さんに手伝って頂いた。
集会中に浪江町役場の方が顔を出された。
支援の結果
参加者数 13 名(内男性 8 名)男性の方が多いイベントは初めてのこと。
庖丁研ぎ 12 世帯 16 本
豚汁 8 リットル、ご飯 9 カップ
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・何かと地域(二本松市)と交流している。
・蓬莱キリスト教会(福島市・佐藤経夫牧師)、二本松教会(日本基督教団)と交流がある。「キリスト教会には世話になっている」。
・○○会という宗教団体が勧誘に来て迷惑したことがあった。
・この仮設は、隣との壁の厚さが 10 ㎝くらいあって、防音がいい。
・みんなで毎朝駐車場に出て、ラジオ体操をしている。安否確認になる。混ざらない人もいるが。
・住民家族相互で「誕生会」もしている。
・来年の 9~10 月には、他所に出ていって、みんな居なくなるのではないか。
・埼玉の会社に勤めていた。定年になり妻の実家の近くの浪江に移ったのだが。
・犬(今 17 歳)と一緒に避難した。体育館には入れず、車の中にいた。
◇2016 年 4 月 16 日(土) (買い物・仕込み・アンテナ工事)
◇2016 年 4 月 17 日(日) (仕込み) (角田キリスト教会)(夕刻石川千鶴子と合流)
【3】2016 年 4 月 18 日(月) 南相馬市「千倉仮設住宅」
94 戸建設 81 戸在住 ほぼ全員が小高区民
NPO「つながっぺ南相馬」が常駐しサロンを開いている。今回は、連携して開催した。
昨年 8 月に続き 2 回目の訪問
千葉県八千代市在住の齋藤氏夫妻が見学に来ておられ、手伝いをして頂いた。
奉仕者は、石川和宏 石川千鶴子
支援の結果
参加者数 12 名(内男性 4 名)
庖丁研ぎ 10 世帯 10 本
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・避難の途中では、新発田市などの人が、中越地震の時に助けてもらったからと、「行く先のない人はどうぞ」と申し出てくれた。駐車場で待っていてくれた。
・避難の行き先は分からなかったが、小千谷(新潟県)に行った。
・仮設の入居は来年 3 月が期限だ。みんな困っている。
・この年でこんな苦労をするとは…。俺の人生は何だったのか。
・外部から来るボランティアは月 3 回くらい。
・妻は昨年末にがんで死んだ。医者は放射能の影響があると言ったが、補償で東電と争う気はない。争えばストレスになる。
・小高に帰っても入院できる病院がない。
・仮設の子どもは、入居当時は居た。段々と去って行った。
・千倉の仮設は、外見上は気の毒がられるが、使いやすい。
熊本の地震について
・人吉市からボランティアに来てもらったことがあるのだが、今こちらから行く余裕がない。
・思い出すのでテレビをつけられない。
・自分の被災前には国内外の災害のニュースを見ても他人事だった。けれども熊本のニュースを見ると、今はあの人達の苦労が自分のことのように思う。
【4】2016 年 4 月 19 日(火) 郡山市「郡山南1丁目仮設住宅」
この仮設は、川内村(*)と富岡村からの避難者が混じっている。
今年 1 月に続き 3 回目の訪問
川内村社会福祉協議会(あさかの杜ゆふね 青木久子様)の仲介
建設戸数 150 戸 現住約 60 世帯だが、川内村と両方に済んでいる方も多く、「何人住んでいるか」ということでは、はっきりしない。
郡山市のほぼ中心、イベント会場の「ビックパレット」敷地内にある。川内村からビックパレットに避難し、4ヶ月後に完成した仮設にそこから移ったという方もおられた。
奉仕者は、石川和宏 石川千鶴子
(*)川内村の避難者
避難指示解除:2014 年 10 月(一部地区(**)を除く。)
事故前の人口:3,038 人(2011 年 3 月 11 日現在の住民登録人口)
現在の避難者数(2015 年 11 月 1 日現在)
県内 842 人、県外 196 人 合計 1,038 人
郵便物の送付先を自宅住所にした方を帰還者とした人口:1,705/2,743 人(62%)
(**)一部地区(19 世帯 51 人)
原子力災害現地対策本部本年 6 月 14 日に解除される政府の意向1棟7軒に、川内村と富岡村が混在するので、チラシを配ったり個別訪問したりするのが難しい。
川内村は,既に補償金がなくなっており生活困窮者が多い(河北新報の報道)。支援する側も生活に役立つ支援をしたい。同じ仮設の住民を区別するのも気が引けるがやむを得ない。
支援の結果
参加者数 16 名(内男性 3 名)
庖丁研ぎ 11 世帯 11 本
米 50 ㎏、カップラーメンなどを参加者に差し上げた。(最近避難者の窮状が河北新報に掲載された。)
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・東京オリンピック誘致で忘れられ、九州の地震でまた忘れられてしまう。
・熊本のニュースを見ると、当時のことを思い出す。
・包丁を研ぐのは3回目なので、これまでに研いだ分の感想(切れ具合)を語ってくださる方何人かいた。
【5】2016 年 4 月 20 日(水) 三春町 「斎藤里内仮設住宅」
全員が葛尾村からの避難者 昨年 11 月に続き 2 回目の訪問
建設戸数 60 戸で現在住んでいるのは 35~37 世帯
葛尾村役場三春出張所の仲介
葛尾村の広報の方(澤井さん)が取材に来られた。村のニュース 5 月号に掲載されるとのこと。
葛尾村役場の担当が異動したので、役場(三春出張所)を尋ね、新しい担当の方(松本さん・田辺さん)に挨拶した。
奉仕者は、石川和宏 石川千鶴子
支援の結果
参加者数 18 名(内男性 2 名)
庖丁研ぎ 12 世帯 12 本
皆さまからお聴きしたこと・参加者の様子など
・自宅をリフォームしているが、資材も人件費も上がっている。
・生まれ育った村が無くなってしまうのは淋しい限りなので、何とか帰って村を守りたい。
・避難指示解除は、多分 6 月だろう。
・ボランティアは少ない。来るのは月 2 回程度
・村では沢の水を飲むが、放射能は、濁らない限り出ない。
・要望すれば、東電が各戸に井戸を掘る。
・村の診療所は、医者がまだ決まっていない。
・葛尾に家には米がたくさんあった。全部捨てた。
・あきたこまちを一町歩作っていた。
・仮設の生活に慣れた。ここもいいかなと思う。
・お盆前に戻りたいが、大工さんが居ない。
・自宅の 300m先にフレコンバックの仮置き場ができた。
・原発さえなければ、こんなことにはならなかった。
・ムヒカ大統領は、「科学技術は人を幸せにしない」と語ったが、原発のことだと思った。
・わたしが戻らないと葛尾がなくなってしまう。
・牛を飼っていた。事故後東京に逃がした。
・お年寄りは皆帰りたがっている。被災後に自宅や畑などの手入れに通っている人が多い。
・避難解除に向けて、診療所の医者の確保が出来ていない。
・候補だった高齢の医師がいたが倒れた。
・村の外に家を持つと村の家と土地にも税金が掛かる。手放したくても売れなければ税金は二重払いになる。新しい家に住む子どもや孫たちにその税金を負担させるのは心苦しい。そういうことが理由で村に帰ることを決めた人もいる。
・帰ってから田んぼや畑の農作物が売れなければ、東電から賠償金が出る。作らないままにしていたら、それはない。
・仮設に 5 年住んで出来たコミュニティーを離れる不安から、86 歳の義母は帰らないと言う。夫と共に村で働く予定だが、義母のことをどうしたものかと困っている。
・5 年前はこんなもの押さなくても歩けたのだが。(手押し車で参加された婦人)
・この先の身の振り方が決められなくて、不安の中にいるお年寄りの方は、友人が一人二人と出ていくのを大変寂しがっている。
◇2016 年 4 月 21 日(木)(片付け・掃除・補充品確認 横浜へ)
【6】今回の支援のまとめ
・今回支援させていただいた方は、小高区民(南相馬市)、飯舘村民(福島市国見町)、浪江町民(二本松市)、葛尾村民(三春町)、川内村民(郡山市)合計 5 ヶ所(6 仮設住宅)。この内浪江町の仮設は新訪問。
・出会った方は、関係者を除いて 70 名(内男性 18 名)
・庖丁研ぎは、55 世帯 59 本
・今回も、港南台キリスト教会からのたくさんのお菓子を頂いた。
被災者と仮設住宅の自治会長
今回も、自治会長や管理人の方々にお世話になった。
自治会長は、ボランティアにとっては関所のようなもの。ここが開かないと住民の方々と接する道が閉ざされる。
自治会長は、行事の計画や実行、自治体との窓口、住民の意見のとりまとめ、相談事、冠婚葬祭まで、たくさんの仕事を無報酬でこなしている。様々な苦情の聞き役も多いと聞く。なり手が居なくなるのも当然。
会長の存在と働きが、住民の受ける福祉・福利の多寡に直結している。多くの仮設を訪問した経験からよく分かる。飯舘村は例外で管理人を置き、かなりの実務をこなしている。
福祉・福利を自治会長の義侠心や善意に依存した所から脱皮することが必要。急場を過ぎて久しい。原発事故の発生と収拾に責任がある国と、地方自治体は、早くこのことに気付いて手を打ってもらいたい。被災地での土木工事は、復旧や復興の一部であり、安心して暮らせる避難生活は、復旧・復興以前の“事故対策”ですらあると思う。