2015年4月から、Café de FUKUSHIMA(カフェ・デ・フクシマ)を展開されている、石川和宏長老が東北ヘルプのニュースレターにご寄稿くださいました。
1,214人(!)からの、直接伺われた証言をまとめられた、すばらしい原稿を頂戴したのです。
ただ、紙媒体のニュースレターでは、本当に残念ながら、その全文を掲載することは難しいことがわかりました。
そこで今回、ホームページにて、この原稿を公開させていただくことにいたしました。
文中、石川長老は以下のように1,214人からお話を伺った目的を記してくださっています。
「知らなければ同情はできないし、同情を欠いて共生はできないと思うのです。
私にとって同情と共生とは、キリスト者として生きる証しです。」
またその最後には、このように記してくださいました。
「出掛けて行けばニーズも見えてきます。
出会いがあり、喜びがあります。
暇つぶしの相手でもいい。
話を聞く、寄り添う、共感する、共に生きる。
皆さんの今の苦境に同情し連帯する。
私は『決して忘れてはいない』ことを表明し続けます。」
ぜひご一読ください。
そして被災地で苦しみながら日々を生活されている方々と石川長老のお働きを祈りに覚えていただければと存じます。
(2015年11月16日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)
-------------------------------------------------------------
同情と共生:原発被災者1,200人にお会いして
Café de FUKUSHIMA 石川和宏
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイ25:40)
【1】始めに
福島県は、今も避難者が105,255人、県内に61,161人、県外に44,094人(福島県災害対策本部 2015.11.2)。応急仮設住宅(以下仮設と略)に住んでいる方は、10,481戸20,185人(同2015.9.30)。
亡くなった方は、直接死1604人に対し関連死が1,984人(同2015.11.2)。関連死の内、原発関連死が1,232人(東京新聞 2015.3.10)。
震災関連自殺、今年既に13人 福島県、歯止めかからず(岩手県2人、宮城県1人)、「避難生活の長期化によるストレスなど原発事故の影響が浮き彫りになっている」(福島民友新聞 2015.10.12)。
数字は、あの事故と津波によって人生が変わってしまい、3.11から4年半以上経った今も苦境の中にあるお一人お一人の合計です。
「放射能から避難できない人が取り残され、餓死者が出ている」。
いわき市の友人からの情報でした。
いても立ってもいられず、買い集めた水や手製のおにぎりなどをミニバンに積み、原発に向かって横浜から北上しました。
最初の被災者支援でした。2011年3月24日のことです。目指した広野町の避難所は、どこも再避難で空でした。
アパートの庭で叫び、一軒一軒声を掛けました。私の被災者支援の始まりです。
今年からは、原発被災者の住む福島県の仮設住宅に絞り、イベントを通して支援を続けています。
10月末までに68ヶ所を訪問し、1,214人の方にお会いしました。
ここで伺った話を皆さんにお伝えするのも被災者支援の大きな目的です。
原発事故の影響を受けた方は日本中におられますが、住む家を追われ生業や地域社会や家族生活を失った福島の生の声を知り、「同情し、共生する」ことに役立つことを願います。
知らなければ同情はできないし、同情を欠いて共生はできないと思うのです。私にとって同情と共生とは、キリスト者として生きる証しです。
何はともあれ、まず仮設68ヶ所、1,214人の方のお話を聞いてください。
南相馬市・浪江町・飯舘村・葛尾村・大熊町で被災した方々です。
福島市・南相馬市・相馬市・二本松市・本宮市・伊達市・三春町・会津若松市で伺いました。
【2】 1,200人の証言
1)3.11直後にあったこと・避難(生活)
◆3.11直後
・原発から20㎞圏内に住んでいた。爆発する音が聞こえた。(南相馬市)
・爆発時に煙のような雲のようなものが見えた。(飯舘村)
・3月12日昼頃避難指示が出た。(南相馬市)
・畑にいた人は長靴のままで避難した。
・ストーブで魚焼いていたが、そのままで急遽避難した。
・サンダル履きで小学校の体育館に避難した。
・すぐに帰れると思って鍵もかけずに体育館に集合した。
・理由は教えてもらえず、避難した。地震で避難とはおかしいなと思った。
・「(理由は告げられず)ともかく20㎞圏外に逃げろ」と言われた。着の身着のまま。何も持ち出せなかった。何で避難しなければならないのか分からなかった。
・津波の後だったので、「とにかく高い方、山の方へ逃げよう」と考えた。
・とにかく西に行けということだった。
・取りあえず着の身着のままで避難した。最初に家に戻れたのは2年後だった。それも滞在は2時間だけ。
・日中は暑かったので薄着だった。そのままの服装で避難生活に入ったので寒かった。
・理由は告げられず、体育館に集まれと言われ、着の身着のままで集合した。そこからバスに乗せられ連れて行かれた。運転手に「どこに行くのか?」と尋ねたが、「分からない」だった。
・3~4日で帰れると思った。電気もつけたまま家を出た。着の身着のまま。戻れたのは24年9月。
・一泊か二泊で帰れると思った。
・原発爆発後も、行政からは何の連絡もなかった。(飯舘村)
・避難先は自分で決めた人もいたが、車のガソリンがなくて、バスで集団避難しなければならなかった。
・何も持たず避難した。せいぜい2~3週間で帰れるだろうと思って逃げたのだが…。
・最初は町内の体育館、次に津島、その次が飯舘村へ逃げた。汚染された(線量の高い)ところに逃げた。
・たまたま原町の病院に夫が入院していた。自分(妻)は付き添いしていた。家は海から数十メートルにあり、津波で近所の人は流された。友達が皆死んでいなくなってしまった。2日目には原発が爆発した。
・津島まで逃げたが、渋滞で4時間掛かった。その間に被爆した。
・3月14日の夜、村長指示で全村民を対象に村から避難した。「他の号機も爆発するかも知れない。空振りだったら私が責任をとる。職員は、夜は酒を飲まずに待機するように」ということだった。(葛尾村)
・浪江から飯舘に逃げてきた人は、みんな津波被害者だと思っていた。村を挙げてお世話をした。しばらくして浪江の人は理由を語らずに全員が去った。(飯舘村)
・3月14日までの3日間は、114号線上で、車中生活をした。
・3月12日の朝に双葉町に出掛けた。道路ですれ違う車は、避難のために北上する車で一杯だった。その時は理由が分からなかった。双葉町の訪問先は既に避難した後だった。
・自分は長男なので、渋滞の中脇道を探して姉の家に助けに行ったが、既に避難していた。
・3.14にみぞれが降った。何かを燃やしたような臭いがした。原発の爆発だと知らされたのはそれから一週間後だった。(飯舘村)
・浪江・大熊から逃げてきた人のために3日間炊き出しをした。その時、本当は飯舘から逃げなければならなかったのだが。
・13日にテレビで原発の爆発を見て、それで初めて(避難指示の)理由が分かった。(大熊町)
・消防も無線の電池が切れて、情報を持っていなかった。
・障がい者の兄がいたので、皆さんと一緒に手配されたバスには乗ることができなかった。
・「もう年だから、死んでもいい。どこにも行かない」と言ったのだが、連れ出された。
・「ここから出なければ駄目だ」と言われ、仙台の娘の所に行った。(南相馬市)
・持病があり、薬が必要だったので、遠くまでは避難できなかった。
・原町の病院からは強制退院させられた。薬は「避難先でもらって」と2日分しか処方されなかった。
・津波の人の炊き出しをしていた。ご飯を炊きあがった時に避難命令が出た。理由は言われなかった。(南相馬市)
・3月12日から14日は、浪江などから逃げてきた人のお世話をした。電気は大丈夫だった。
◆原発+津波
・小高で大工をしていた。道具は津波で皆流された。(原発と津波の両方の被害者男性)
・野馬追いの甲冑も馬も全部流されてしまった。
・津波に流された。家も車も船も全部。
・漁師をしていた。津波で家も船も全部失った。自然災害なので何の補償ももらえない。
・160戸あった部落だが、津波で流され4戸しか残らなかった。60人が亡くなった。(南相馬市)
・海のそばに住んでいた。丘の上に逃げた。避難指示はなかった。そこから津波の全部を見た。恐ろしくて元の所には住めない。
・妻と娘が津波で死んだ。遺体安置所で確認したが火葬にするまでは不思議に涙が出なかった。その後何ヶ月も泣いた。現実とは思えなかった。未だに受け入れられない。悪夢であってくれればと思う。放射能汚染で避難指示も再三あったが、小高から逃げる気にはなれなかった。二人の所に早く行きたかったが、自殺するとあの世で会えない。複雑な思いで生きている。
◆避難(生活)
・2~3日で帰れると思って毛布1枚しか持ち出さなかった。
・体育館に避難した後、バスで片品村に行った。7月30日に抽選に当たりこの仮設に来た。
・身重の息子夫婦がいたので、茨城県など8ヶ所を転々とした。
・相馬女子校体育館に40日間居た。床にブルーシートを敷いただけだった。とても寒かった。
・息子の所に1年半避難していた。
・体育館で1ヶ月暮らし、その後旅館に移った。
・爆発後、津島にある隣の嫁の実家に逃げた。昼食を出してもらった。夜になったら「30㎞圏外に逃げろ」と言われ、田村市に行った。そこでは大きな民家に13人でお世話になった。隣の家が風呂とトイレを提供してくれた。布団も十分あり、みんなに比べれば恵まれていた。「いつまでもいていい」と言われたが、そうもいかないので、一週間後に出て避難所に行った。
・最初は、あずま総合体育館(福島市)に行った。翌日原発から更に離れるようにということで、会津板下町に移動した。(葛尾村)
・自主避難で青森や沖縄、アメリカに逃げた人もいる。アメリカは放射能の情報が早かった。20%の人が県外に避難した。(葛尾村)
・相馬市の娘のところに避難、次に神奈川県の(三浦郡)三崎町の娘の所に滞在した。
・最初は陸上競技場、その後喜多方から会津に移った。24年9月まで。その後この仮設に。
・5.17にバスで栃木の体育館に避難した。スクリーニングなどで12時間掛かった。疲れた。(飯舘村)
*避難は、佐渡、新潟、吾妻総合体育館などに6ヶ月間(多数の方)(南相馬市)*注:安達太良山に自主避難した。費用は自分持ち。
・都路に行ったが先に着いた人で体育館(避難所)は一杯だった。
・川俣が満杯で避難できなかった人も葛尾に来た。
・避難は8ヶ所目だ。
・山木屋(伊達郡川俣町)に逃げた。
・福島競馬場の調教師が泊まる宿舎で避難生活をした。
・飯舘村・山木屋(川俣町 飯舘の南・114号線沿い)を通り、福島に避難した。あづま総合体育館で2泊し、その後飯坂温泉の旅館に5ヶ月いた。みんなに比べれば幸いな避難生活だった。
・主人が寝たきりで、バスには乗れず、ポータブルトイレを車に積んで避難した。
・戦争より大変だった。
・行政は何もしてくれなかった。
◆食料・水
・前の晩(3.11当日)も次の日も食事はできなかった。
・孫が9人いたが、ミルク・オムツがなくて本当に困った。
・米を紙コップに入れ水と塩を加えて蒸してご飯にして提供した。
・おにぎりを半分に分けて食べた。
・おにぎり支給の行列に並んだが、自分たちまで回らなかった。
・水の配給は、1日一人当たり紙コップ半分だった。薬を飲むので無くなった。
・津島では、「家族でおにぎり一個」だった。
・大東亜戦争当時も食べ物がなかった。ひどい体験を2回した。(昭和6年生まれの方)
◆放射能と被曝
・線量が高いことは2ヶ月間知らされなかった。それで大量被曝した。(飯舘村)
・避難中にコンビニに立ち寄ったところ、「あっ、福島ナンバーだ。やばい。」と言われた。
・原発事故後に飯舘に避難してきた浪江の人たちをお世話していた。ある日突然いなくなり、「自分たちも避難しなければならないらしい」と話した。
・浪江の人は、スクリーニング(被曝の検査)をしなければ病院に入れてもらえなかった。「スクリーニング済み」の証明書が必要だった。
・証明書が無いと避難所にも入れてもらえなかった。
・避難・被曝・転校で、「以前の子供とは違う子になってしまった」という母親もいる。(涙を流しながら)
・女の子たちは、被曝のことを知って泣いていた。
・津波に巻き込まれた人を救助していた自衛隊が、原発事故後、先に小高から逃げた。彼らは独自の通信で放射能の情報を知っていたのだろう。我々には知らされなかった。
・ある家族(3人の子供・中学生と小学生)は、放射能汚染を知らされることなく事故後も2ヶ月飯舘に居た。その後避難したが、避難先で情報を知った。子供たちは「結婚できない」「子供を産めない」と何日も泣き続けた。多感な時に痛ましく思う。
・子どもと家族が甲状腺検査で全員ひっかかった。その中には手術が必要な子もいる。
・「自分たちは、放射能のことは、「にわかには影響が無い」と聞かされ、海側から逃れてきた方々のお世話をしばらくしていた。それなのに実際は強度の被曝をしていた。(飯舘村)
・7月12日まで4ヶ月間飯舘の家に居た。被曝したと思う。
・偉い先生が来て、「大丈夫」「大丈夫」と言っていた。政府もそうだった。(飯舘村)
・前日まで偉い先生が「心配ない」と言っていたのに、翌日突然「避難指示」が出た。信じられない。(飯舘村)
・兵庫県の医師が来て線量を測り、「どうして逃げないのか」と言われた。村からの指示待ち状態だった。
・白づくめの防護服を着た人が長泥に来ていた。「何をしているのか?」と尋ねても答えなかった。
・避難開始と5月14日に言われ、翌15日に逃げた。(飯舘村)
・調べると内部被曝していたので、避難所に入れてもらえなかった。
・原町に住んでいたが放射能からの避難で大野台に来た。4歳の子は、当時生後4ヶ月だった。夫とは二重生活で、週末には帰ってくる。(母親と幼児3人(5歳・4歳・1歳)のご家族)
・一回の作業で80ミリシーベルトを食う人もいた。(大熊町・原発作業者)
・原発に通う車がないので、トラックの荷台に乗った。警察も黙認だった。(同)
・防護服・防護マスクを絶対離せないので水が飲めない。トイレに行けない。(同)
・体育館でマスクをして寝るように言われたが、そうはできなかった。(同)
・(3.11の2ヶ月後の全村避難の前に)自主避難した人は、勇気があったと思う。(飯舘村)
◆避難所生活
・最初に避難した体育館から下着などの必需品を買うため、車がないので徒歩で出掛けた。たくさん歩いたがどこも売り切れで、困った。トラックに乗せてもらうこともあった。お金が自由に使えるようになってすぐに車を買った。(車は大熊から持ち出せなかったため)
・孫は川俣に避難したが、学校で「飯舘は側に来るな」と言われた。学校に行かなくなってしまった。
・息子の持病の喘息が、原発後悪化し、入退院を繰り返している。*注:避難中に持病があった夫が死亡した。
・避難所の体育館で、夜うなされた。他にもそういう人がいた。
・自主避難したが避難先で使う布団がなかった。避難所で空いた布団をもらって使った。
・避難所で、近くにあったストーブの音が津波の音に聞こえ大声を上げた。みんなを起こしてしまった。
・私たちは避難中に放射能をいっぱい浴びている。
・(東電関係者の方)「絶対に逃げろと言われるから、支度をしておけ」と言われた。それで鍋や米を持って逃げることができた。
・夫は津波で流された。あの時死ねば良かったと思う。仏壇に毎日手を合わせ、「今日も守ってください」と祈っている。
・持病の薬を補充できず困った。赤十字が薬を3日分出してくれた。しかし、その薬が自分には合わなかった。
・避難所内の空気が悪く、咳が一ヶ月間止まらなかった。マスクをして寝た。
・避難所の天井が壊れていたので、廊下に寝ていた。しょっちゅう誰かがトイレに行き来するので、ずっと眠れなかった。
・夫は持病があり、避難中に亡くなった。お墓は帰還困難区域にあり、除染しなければならない。お寺も避難している。お墓を作って遺骨を納めたいと思っている。
・以前は自分の土地の産物を食べていたが、ここでは何でも買わなくてはならない。「都会では土も買う」と聞いて驚いていたが、そうなってしまった。
2)生活の破壊・家族の分断
・爆発前は、4世代が一緒に住んでいたが、今は4ヶ所に分散している。
・飯舘村は、1600世帯だったが、(分散して)3000世帯に増えた。
・家族が分散してしまった。孫に会えない。
・子供家族は福島を出て東京に行った。呼んでも線量が高いということで、来てくれない。こちらから出掛けて行くしかない。
・浪江の女性が「放射能汚染」を問題視され縁談が破談になったことはしょっちゅう聞く。
・相馬と浪江の縁談が、「浪江は放射能でダメ」と破談になってしまった。
・離婚が多い。大家族が分散したためとストレス・被曝(原発)に対する考え方の違いなど。
・家庭は3世帯に分かれてしまった。
・この仮設で子供がいるのは3世帯だけ。原発から遠い所にみんな避難している。
・息子家族は茨城に避難しそこで仕事についた。孫たちとは離れて暮らすことになってしまった。
・全部無くした。息子一家も離れたところで暮らしている。毎日TVのお守りをしているような生活がたまらない。
・5町歩の田んぼをやっていた。もう稲作の意欲は失せた。
・借り上げ住宅に住む人の様子を見に行ったら、「来ないで欲しい」と言われた。「原発避難者だと知られると周りから白い目で見られるから」と。
・ここでは何もすることがない。それが一番大変だ。夢も希望もない人生になってしまった。
・時々精神がおかしくなったのではないか、と思うことがある。
・ストレスで太ってしまった人が多い。
・この先どうなるか不安(多数)
・戦争よりひどい体験だ。
・住まいに置いた乗用車は、被曝しているので高級車でも5万円の値段しか付かなかった。
・今死んでも「遺影」にする写真が残っていない。
・仕事をなくしたので給料のよい除染の仕事をしようと思った。「現場は人の入れ替わりが激しい」と聞いて止めた。
・牛の肥育業をしていた。牛の世話があったので、飯舘村から避難するのが遅れた。
・その後、牛は処分せざるを得なかった。名前をつけて可愛がっていたのだが。
・百数十頭の牛を飼っていた。乳牛をしていた人は、泣きながら牛乳を投げた。
・牛を飼い始めたのは、年を取ってもできる仕事だから。
・(補償金のことで)「小高の人はいいな」と言われる。全部失ったのに。
・この年になってからこんな目に遭うとは思っていなかった。
3)故郷への思い
・1年後の4月14日に始めて帰宅を許可された。滞在できたのは2時間だけだった。(南相馬市)
・2011年5月28日(3.11から約80日後)に始めて一時帰宅ができた。(南相馬市)
・飯舘から出る(避難する)時は、一家で車3台に一杯家財を山のように積んで出発した。涙が出た。思い出したくない。
・新家(=分家)なので独立し山を買い耕作地にした。ワラビを栽培しやっと軌道に乗ったダメになった。
・飯舘村についてトルコキキョウなどの花を作っていた。山間なので寒暖差が大きく、きれいな花で、長持ちする花を作ることができていた。
・ブロッコリーを作っていた。高原野菜(標高450m)と言われ、寒暖差があって甘い作物ができた。
・牛を飼っていた。みんな放した。
・水は旨かった。川ではイワナなどの魚がたくさんとれた。
・小さい頃から学校から帰ると山に行って植樹をした。雪が降れば添え木をし、下草を刈って手入れした。40年経って木も育ち太くなったが、放射能で放棄せざるを得ない。やっと人並みの暮らしになったのだったが…。何のために長年苦労したのか。思い出して涙が出る。
・飯舘は山菜(ウド・タラの芽・赤キノコ・シメジ)がたくさんとれた。おいしかったのだが…。
・桜の葉が黄色くなる頃は、山でキノコがたくさん取れた。
・原発で何もかも奪われた。悔しくて涙が出る。
・仮設にいて、夜になると飯舘の頃のことをいろいろ思い出す。
・原発爆発時に風向きが東向きだったらこんなことにはならなかった。
・すれすれで20㎞圏内だったが、警察は家に行かせてくれなかった。隣はよかった。
・(一時帰宅で)家に帰ると頭痛が治る。
・小高では家の周りに、水仙・ツツジ・あじさい・岩芝を四季に合わせて咲かせて楽しんでいたのだが…。
・日本一おいしい魚を食べていたが、今は食べられない。ホッキ貝の蒸しおこわはおいしかった。(南相馬市)
4)仮設住宅での暮らし
◆狭さ
・6畳と4畳半2間に親子4人で住んでいる。一部屋は荷物置場になっているので、高校生以上の息子娘と同じ部屋で寝なければならない。
・4畳半に寝ているが、狭くて橫になれない。布団を敷くとトイレの戸が開けられなくなる。
・四畳半一間(単身者)、四畳半二間(二人世帯)では、狭くて、もう仮設暮らしは限界だ。
・(故郷の)「納戸の方がもっと広い」
・今は、夫婦2人で4畳半一間にいる。小高の家は、10畳間が4つあったのだが。
・2人世帯でもそれが親子だと4畳半2間に入れる。
・2重サッシを追加した。部屋の内側に追加したので、それで更に狭くなった。
・畳を敷いたのが入居2年後だ。
・台所で寝ている人もいる。寒いはずだ。
・隣家との仕切りは板一枚。隣の音が何でも聞こえてしまう。
・子供家族が訪ねてきた時には、重なって寝るようになる。
・4畳半と6畳の二間で暮らしている。狭い。こたつを置くと布団が敷けない。
・床も板一枚で断熱していない。寒い。
・雨漏りと結露(実際床に雨受けのバケツが置いてあった)
・ここは2人世帯なら4畳半2間なので、松川の仮設のように押し入れに足を入れて寝るようなことはない。あそこは狭い。(飯舘村)
・2人~3人世帯なら4畳半2間。狭い。
・3人世帯で4畳半2間、狭い。
・息子が働いているが、どうしても朝は一緒に目が覚めてしまう。
・1人~2人所帯は4畳半だ。
・仮設で子供が2人生まれた。でも部屋はそのままだった。(広くはならなかった。)
◆水・買い物・生活の変化
・野菜を買わなくてはならない。高いし悪い。かつて作っていた時は捨てていたような物が売っている。
・米を買っている。「ばーちゃんちの米は旨かった」と孫に言われる。
・娘の家はサーバーで毎月水を買って暮らしている。
・飲料水は、買って飲んでいる人が多い。
・「飲み水は買えるが、風呂はな…」(セシウム風呂)
・ここ(避難先の仮設)では、水の果てまで買っている。
・(皆さんが集会所に水汲みに来ているので聞いたところ)水道のフィルターはあるが、気休めだ。放射能は濾過できないだろうし、中身も1年以上交換していない。
・米を買うのは悔しい。
・米味噌醤油全部作っていた。ここでは買わなければならない。出費が多い。
・集会所にゼオライト(セシウム吸着)浄水器があるので汲みに来る。
・村では、水は湧き水、風呂焚きは薪、米・野菜も自給自足、ゴミは畑で燃やしていた。生活するのにお金は掛からない。仮設では、米・野菜を金で買い、光熱水費の節約し、ゴミの分別をしなければならない。やっと慣れてきた。
◆することがない
・仮設では、食べて寝るだけの繰り返しの毎日で、これは馬や牛・犬や猫と同じ生活だ。
・農業をしていた。仮設に入って1年くらいした時から、もう以前のような労働はできないと思った。
・農家をしていたが、ここではすることが無い。
・ここではすることがない。みんな暇だ。
・仮設では、するとがなく、仮設の隅(土手)で野菜を育てている。
・今の時期は田植えがあった。身体がうずうずする。
・(稲作をしていた方)青々した田んぼを見ると涙が出る。
・田んぼを見るとストレスになる。この仮設は田んぼが見えないからいい。
・小高で農業をしていた。仮設ではすることがない。
・一人でいると色々考えてしまう。
・仮設で周りは知らない人ばかり。でも友達は一人できた。
◆健康悪化
・農業と牛飼いをしていた。早朝から遅くまで仕事をしていた。ここではすることがなくて、体がなまってしまった。かえって足腰が痛む。
・震災後働けなくなり、足が悪くなった。
・体調が悪く医者に診てもらったら鬱病と言われた。
・飯舘時代には何でもなかった人が認知症になった。
・みんな疲れ果てている。
・前よりも動かなくなったことでいろいろな障害(症状)が出ている。
・高齢者はそれまで元気だったのに、仮設暮らしで動けなくなった。
・両親は、共にすっかり身体が弱ってしまった。
・仮設にいると毎年2年分年を取る。
・父親は漁師をしていた。避難してからは介護度が上がった。
・夫は船に乗り漁業をしていた。漁に出られなくなって急激に老化現象が出てきた。
・何もすることがない。車もないし。
・隣の音が聞こえるのはストレスになる。村では家の周りでも物音はしない。
◆放射能・風評被害
・放射線量を全量検査している物でも「福島のは要らない」と言われる。測っていない他県産より安全なのに。
・ここに来てから、地元で「東電から補償金をもらっていいな」と言われた。「悪いことをしてここに来たわけではない。田んぼも畑も家もある。悔しい。言わないでくれ。みんな悲しい思いをしているのだから」と言い返した。それから地元の皆さんとの関係はよくなった。
・娘に福島県産の桃を送ったら、「もう送らないでくれ」と言われた。
・米作りを始めたが、食用にはできず、飼料米を作っている。放射能は大丈夫かなと思う。
◆子供たち
・子供たちは話さない。気持ちは分かるから(親として)辛い。
・子供たちは傷ついている。口数が減った。
・大熊の子供は53名いたのだが、今は8人になった。
・会津にいる大熊の子供は、幼稚園5人、小学生5人、中学生9人。
・少ないのでクラブ活動や運動(競技)ができない。集団行動を教えられない。
・子供たちにとって、避難のために学校が変わるのは大変なことだった。
・居住者は、118戸で子供は2人(飯舘村)原発事故が無ければ、近所に大勢の友達がいたはず。
◆日常生活・入居者の動静
・日中に散歩していても(除染作業員が)怖い。大通りを歩くように道を選んで散歩している。
・若い人・単身者から順に出て行く。
・仮設からぽつりぽつり出ていく人がいる。帰還を諦めた人がいわき市や郡山市に引っ越す。(浪江町)
・3分の2の人はこの仮設から出た。いわき市の仮設や郡山の復興住宅に移った。(大熊町)
・ご近所付き合いを求めて、借り上げから仮設に移ってくる人もいる。
・これからどうなるのか、5年は長すぎる。
・議員などは、選挙の時だけ来る。
・ボランティアのイベントは、「週に1回どころか月に1回もない」
・ボランティアは、ほとんど来ない。
・ボランティアは来ない。小さい仮設だから。3.11後もそうだった。
5)古里の様子
◆家の様子
・帰りたいと思わない。家が荒れているので帰る度にがっかりするから。
・自宅や田畑を見ると涙が出る。先祖に申し訳がない。
・戻らないが、田畑の草刈りは続けている。(草刈り鎌を持ってこられた方)
・4年経って家がダメになった。湿気で。畳や床が抜けてしまった。処分した。
・家は2年手付かずだとほとんどダメになってしまう。
・集めていた写真はカビ生えている。たとえ東電に補償してもらっても金では買えないものもある。
・植木類は、ほぼ全滅した。持ち出すことは禁じられている。
・庭木は怪獣のように伸び放題。キューイの木や藤の花木など。木を切ることは禁じられている。
・じいさん(夫)が手入れをしていた植木が(両手をくねらせて)こんなになっている。
・庭に植えていない柿の木が育って実をつけている。鳥が種を運んだのだろう。
・1年前に自宅を見に行った。前の畑が林に変わっていた。アカシアが何本も太い木に育っていた。種が飛んできたのだろう。畑も家も手放すことにした。
・田んぼは、鎌では刈れないくらい柳が生い茂っている。もう駄目だ。
・田んぼは藪になってしまった。
・24年9月に始めて一時帰宅ができた。草が木になっていた。
・ねずみ・ハクビシン・イノシシに家を荒らされる。
・家が荒らされる。イノシシ・イノブタは、牙で戸を壊して進入する。
・ネズミの被害がすごい。2012年以後爆発的に増えた。
・ネズミにかじられて、床柱が細くなってしまった。
・ネズミは、布団・柱・靴など何でもかじる。仏壇の遺影の木枠をかじる。糞尿の臭気もすごい。
・たくさんある布団をネズミにかじられて、使い物にならない。
・我が家もネズミがいて、何でもかじる。長押(なげし)もかじられた。
・プラスチック製の醤油瓶をかじるので、周りが醤油だらけになる。味噌もなめ、石けんを食う。
・クマネズミが家に住み着いている。天井に穴を開けている。
・押し入れを開けたらネズミが飛び出してきた。
・小動物の排泄物で家の中がとても臭い。ネズミのオシッコの臭いが凄い。
・イノシシは、野菜を根っこまで掘り出して食べてしまう。花の根っこまで食う。
・イノシシが(ミミズを喰うため)土を掘り返し、土地の姿が変わってしまった。
・イノシシは群れになって、犬をやっつけてしまう。
・イノシシは自分で戸を開けてしまう。閉めることはできないが。物置を開けて荒らされた。
・イノブタは人を怖がらない。気持ちが悪い。
・庭は掘り起こされる。モグラやミミズを食うためにイノシシが掘り返す。
・牛が家の中に入る。
・余震で窓の鍵が外れそこから動物が侵入し家を荒らされた。
・豚・猪・牛・鼠の害がひどい。怖くて見られない。
・どろぼうは、鍵を壊して物を盗む。タンスの中の古銭も盗まれた。
・自衛隊と同じ迷彩服を着たどろぼうがいた。
・庭の花を株ごと盗まれた。以前は家に鍵も掛けない村だったが。
・位牌まで盗まれた。金文字を見て値打ちがあると思ったか。
・座布団が50枚あったが使えないので処分した。
・家を解体したら税金が倍になった。
・ゴールデンウィーク中の一時帰宅は、水、電気がないので、できなかった。
◆故郷の放射能汚染
・水は流れていても飲めない。
・放射能は見えないが気持ちが悪い。
・線量が高くて、子供たちは墓参りにも来ない。
・お盆でお墓参りしたが、線量が3~4μSv/hもあった。
・フレコンバックも破れる。イノシシはミミズを喰うためにフレコンバックを喰い破ることを覚えてしまった。
・自宅庭で除染後でも3.0µSv/hある。除染しても線量はすぐ上がってしまう。
・生活を元通りにするのが復旧・復興だ。除染で終わりではないはず。
・集積場が近くにできた。5メートル離れれば大丈夫と言われているが心配だ。
・家の近くに焼却炉ができた。風下なので線量が0.8µSv/hもある。
・仮置き場は地権者が1000人以上いて、江戸時代にまで遡らないと所有者を特定できず、用地買収が進まない。
・がれきの焼却設備を作っているが500億円掛けても焼却が終わる2年後にパー。大金がもったいない。
・線量は、雪が降ると下がる、春になると上がる。
・畑が藪に変わってしまっている。向こうが見えない。その中に入るとアラームがピーピー鳴って(2.5µSv/h以上)先に進めない。
・40町歩の山林を持っていたが、放射能でダメになった。
・飯舘でも二枚橋地区は、線量が低い。全村避難で、かえって線量が高いところに避難している。
・長泥(飯舘村)地区から避難している。帰還困難区域。線量が高く一時帰宅もしていない。
・家は再建したいが、先ず壊すことができない。壊しても廃材を持って行くところがない。燃やすことも禁じられている。
・福島は、線量を公表しない。本当のところを隠している。
・(南相馬には)放射能が怖いから、テレビ・新聞・週刊紙・カメラマン、皆来ない。報道が少ない。
・津波被害の方の報道は多いのに。事故の事実を消そうとしている。
・みんなは、既に復興したと思っている。「東北は復興した」とPRしている。
・建具屋をしていた。機械や道具を持ち出せず、仕事はできない。
◆一時帰宅
・6月になってから、一時帰宅ができた。都路に集合し、防護服に着替え、現地滞在は1時間だけ。
・一時帰宅は、4時間以内。防護服を着る。自宅には水も電気も通ってない。
・一時帰宅しても周りに住んでいる人がいないので、自分の家なのに居るのがおっかない。近所に人はいないし、除染で知らない人がたくさんいる。
・一時帰宅をするが、近所の人は誰もいないので寂しいし恐ろしい。
・9月から申請すれば90日間一時帰宅(宿泊)できるのだが、申請した人は2割しかいない。申請はしたが帰らない人もいる。
6)事故責任・被爆健康被害・線引き
◆事故責任
・人災なら責任者がいるだろう。
・悪いことをしていない被害者がいるのに、加害者がいない。
・原発は政府が許可したのだから政府の責任だ。
・普通こんな事故があったら誰かが犯罪者になるが、今回は誰も出ていない。
・再稼働してもいいが、俺たちのことが解決してからにしてくれ。
◆被爆健康被害
・夫は、診断で白血球増加、血小板減少と診断されている。
・甲状腺がんの検診を毎年受けさせられているが、検査するという通知が来るのが怖い。
・検査の結果はA2(*)だった。(A2:甲状腺の超音波検査で「5.0mm以下の結節や20.0mm以下の嚢胞を認めたもの」
・この仮設は、線量の高い場所に建てられた。室内でも線量が1.5とか1.7あった。線量を測らずに建てた。床下にモルタルを敷いてもらった。
・放射能は、線量の話しをいろいろ聞かされているが、本当に真実な数字なのか判断できない。測定器に問題があると聞いたこともある。
・孫が線量の高いところでアルバイトをしていた。心配なので辞めさせたが、やはりその後の検査で甲状腺に嚢胞があると診断された。
・線量高い、店がないので帰らない。線量のことは家族も戻らない方がいいと言っている。
◆線量線引き
・区域の線引きで補償にも差がある。線引きが原因で隣家と仲が悪くなってしまった人もいる。
・先に避難指示解除になった川内村よりも飯舘村の方の線量が高い。
・(避難指示解除条件の)20mSvは、復旧でない。
・20㎞圏内に130m外れ、避難指示(現在の避難指示解除準備区域)区域に入らなかった。それで補償金が出ない。部落も半分だけ区域に入った。20㎞線引きの中心は、広い原発敷地のどこなのか?
7)除染
・「2年すれば戻れる」と当初言われていた。2年たったら「また2年」と言われた。「2年の根拠は我慢の限界」とのことだった。馬鹿にされたようだ。
・土が戻っても(セシウムがなくても)、飯舘産の農作物は、買う人がいないだろう。
・近所に仮置き場ができてしまった。100メートルくらいの風下なので戻れない。「みんなが判子を押した」と言われ自分たちも押したのだが…。
・放射能は、雨で上から下に流れる。上をまず除染しないと意味がない。
・除染を下から始めるのは金を捨てているようなものだ。
・除染は福島の山を裸にしなくてはならない。
・中間貯蔵所は、30年経っても他に移すことは無理だろう。
・汚染物資として出したゴミを指定場所に置いたが回収してもらえない。「持って行かないのはうちが貧乏だからか」と抗議した。
・「4月中に除染を済ませる」と環境省から連絡があったが、未だ来ていない。
・原発も大丈夫だと言われてきたのにあの有様。除染するから大丈夫と言われても信用できない。
・除染したが、しばらくして線量が前に戻った。
・農家の除染は、(広いので)時間がかかる。一軒に何日もかかる。うちは、一回除染したが線量がまた戻ってしまい2度目の除染をしている。
・除染は気休めだ。
・帰還準備区域の自宅は除染が終わっている。庭の木は全部切られているが、切った木も含め、除染で出たゴミが我が家の前に置かれている。
・除染は、いつ始まるのか分からない。(皆さん)(浪江町)
・除染の車は、レンタカーが多い。(同じような話しは他でも聞いた。)
・モニタリングポストはコンクリート上に置いているので値が低い。周りを除染するし。少し離れると値は高い。
・(除染について)いい加減な仕事をしている、壁も除染したと言いながら、見たら壁面の蜘蛛の卵が残っていた。指摘してやり直してもらった。
・除染はみんな中途半端だ。コンクリート(犬走り)の上のツバメのフンがそのままだった。
・除染の人は「迷惑をかけて申し訳ない」と謝っていた。仕事もていねいだった。
・除染の人は「済みません」と言うが、東電のトップが謝るべきだ。誰も何も責任を取っていない。
・町の除染は諦めて、別の場所に町を再建すべきだ。そしたら皆で安心な所に部落ごと移れる。
・飯舘は、3/4が山地。除染は住居の周りだけ。村に住むのは無理。
・除染の人は怖い。家に帰っても内側から鍵を掛けている。
・除染の人が怖いので、帰っても落ち着かない。線香をあげてさっと帰る。
8)帰還・将来の見通し
◆帰還
・帰れることになっても、それは喜びではない。
・帰れと命令されても困る。
・帰れと命令されているが帰らない。(多くの方は、避難指示解除のことを「命令」と受け止めておられる。)
・(避難指示が解除されたら帰りますかという問に対して)(全員が)「帰らない」(南相馬市)
・帰還はどうしても諦めることができない。
・避難指示解除になったら戻るかどうかで悩んでいる人が多い。
・先の(帰還の見通しは)全くない。(皆さん)
・みんな迷っている。先の状況が見えない。
・帰還の予定はない。立たない。
・29年3月に全員帰れると言われているが、10年は無理だと思う。(飯舘村)
・29年解除と言ったって、また2歳年を取ってしまう。
・再来年の3月に避難指示解除になる予定だ。本当はどうなるか分からないが。
・除染して帰れと言われても、部落の皆が帰らないのでは、帰りたくない。帰りたいのだが…。
・部落は130戸あるが、戻るのは50戸くらいだと思う。
・村のアンケートでは、除染し避難指示が解除になっても帰る人は30%。若い人は戻らないだろう。
・家は瓦一枚落ちていない(地震での被害)のだが、線量が高くて戻れない。
・除染が済んだら帰るという人もいるが、結婚前の息子がいるので帰るのは不安だ。
・息子に川俣で家を建てるように言っているが、「ゴミゴミした所は嫌だ」と言われている。(飯舘村)
・問題はあっても、親が「帰りたい」と言えば、結局、子は従わなくてはならない。
・子供の教育を考えると、今の仮設も、帰還してもダメなので、仮設を出て余所へ行くしかない。
・母親が透析をしている。それができないところには行けない。
・子供たち家族が小高に帰らないので、自分たちも戻れない。
・子供は、「怖い」と言って戻らない。
・小高に戻ることは孫たちが反対している。「仕事がない」「学校がない」という理由。
・ライフラインが整えば帰ることができるわけだが、子ども達家族は帰らないことを決めている。
・孫と嫁が津波で亡くなった。一人息子は別の所にいる。除染が済んだらリフォームして戻ることを決めたが、息子は帰らない。
・娘は、「そんなところに両親が戻るのは心配。もし戻ったらなら小さい子がいるのに同居しなければならない」と言っている。
・帰村しても、年寄りは子供も一緒に来ないと世話(介護)をしてもらえない。
・夫は除染前でも帰るつもりでリフォームを始めた。除染完了は2年後と言われているが。自分は、線量が高いので戻りたくない。そこには友達もいない。病院や買い物は車がないとダメ。車の運転はできないので、高齢の夫を頼りにすることになる。
・子供のいる家庭は、「学校が変わるのは嫌だ」と言われて、他所に家を持つのをためらっている。
・知り合いの多くも一緒に戻らなければ、一人暮らしは心細い。
・自宅は築後17年でしっかりしている。先祖が植えた杉の木を使って建てた。大黒柱だけ他から買った。それなので、住めなくなるのは先祖様に対して申し訳ない。
・復興住宅には基準に合わないので入れない。借家に入るとしても家賃の方が年金より上だ。どうやって暮らすのか。
・帰還後2年で補償が終わりでは、その後の生活はどうなるのか。蓄えを取り崩して生活することになるのは目に見えている。蓄えがなくなったら終わりだ。
・帰っても生活は成り立たない。米は持って行けても野菜はそうはいかない。買うところもない。
・百姓をしているが、帰っても(環境汚染があり)農業はできない。
・農業をしていた。帰っても作っていいものか…。買い物もこっち(原町区)に来なくてはならないので、解除になっても帰らないだろう。
・農業をしていたが、農機具はそのまま取ってある。農業が再開できないことは分かっているが、機械を捨てる決断はできない。
・解除になったら帰りたいが、家を壊し再建しなければならない。地元の大工さんは手一杯でダメ。ハウスメーカーに知り合いがいるので頼んでいる。2年はかかるだろう。
・隣組で戻りそうなのは十数軒中の3軒だ。
・線量が高いし、店もないので帰らない。線量のことで、家族も戻らない方がいいと言っている。
・農業をしていた。帰っても作っていいものか…。買い物もこっち(原町区)に来なくてはならないので、解除になっても帰らないだろう。
・戻っても線量が高く、仕事もない。
・帰る見込みはない。汚染された地域の宅地は買い上げる対象となるが、農地はダメ。米を作っても売れない。その農地を買う人もいるわけがない。
・家は一旦壊して再建しなければ帰れないが、業者が皆忙しくて、手当ができない。
・家は、小さい学校の校舎くらいの大きさがあり、茶の間でも20畳ある。解体するにしても費用は出るのか心配。リフォームするにしても、水回りだけで1,000万円掛かると言われている。
・工務店が注文が多く、家を建てることもできない。
・戻れることになっても、大工さんが不足していて家を直せない。1~2年待ちと言われている。
・原町に転居しようと思うが、大工が足りず家を再建できない。
・政府などが、除染の完了時期や帰還できる時期を決めてくれないと、我々は帰還するか、時期はいつかなど、将来のことを決められない。
・小高の20年後は誰もいなくなるだろう。過疎地と同じだ。町はなくなる。
・小高の町はいずれなくなるだろう。戻るのは少数で高齢者ばかりなので。
・小高でも浪江町が生活圏で買い物をしていた。浪江町が帰還しないので、戻っても生活が成り立たない。
・小高の避難指示解除準備区域の人は3800人いるが、解除になっても帰るのは1/3だろう。
・小高は13,000人いるが、戻る人はアンケートなどでは20%。それも老人だけ。これでは地域社会は再興できない。
・小高には13,000人居たが、避難指示が解除になっても戻るのはその1割だろう。
・小高の家はもう住めない。ネズミの被害と長年住んでいないことで、家はもう住めなくなった。
・除染など先の見通しが立たないので、帰還を諦めて他に家を探して仮設を出る人もいる。
・移転先を探しているが、空きが無い。除染の人で埋まっている。(南相馬市)
・この仮設は来年3月で廃止されるが行く場所がない。別の仮設に行くしかない。友達とも離れることになる。
・土地の広いところに家を建てると「避難民だ」と言われる。
・福島市に家を建てた友人が、近所に引越挨拶のタオルを配ったら、翌朝玄関先に多数投げられていた。
・千葉市に避難している友人は、年に4回もタイヤがパンクせせられた。福島ナンバーを現地ナンバーに変更した。
・いわき市に家を建てた人がいる。大きな家を建てて住民(いわき市民)の反感を買っている。家を建てるにしても目立たないところに建てた方が良いと思う。
・除染を待つより他の場所で家を建てたい。
・小高の家の近くにゴミの焼却炉がある。放射能があるので、燃やし終わり設備がなくなったら帰る。
・最近復興住宅に移った人で自殺者が出た。62歳の単身女性。
・復興住宅は、周りが知らない人なので、また新しい人間関係を作らなければならない。
・仮設から復興住宅に引っ越した人も孤立している。
◆将来の見通し
・村は終わりだ。お先真っ暗だ。
・(飯舘村は)日本で一番いい村だったが、一番悪い村になってしまった。
・地域社会(ご近所付き合い)が破壊されたのが残念だ。
・チェルノブイリだってもう30年経つが、戻れない。福島原発は、今でも(汚染水の)垂れ流しだ。
・住めるようになるには、20~30年はかかるだろう。未だ5年だ。廃炉作業の危険もあるし…。もうこの世にいない。
・農家。帰還の話しが進んでいるが、帰っても田んぼはできない。収入がないのに帰ってどうするか。
・福島は政府などに忘れ去られている。
9)賠償問題
・地域社会の破壊は補償の対象にはならない。地域社会こそ我々の財産なのだ。
・補償金は低額で、同じものは手に入らない。
・賠償金をもらっても税金が高く、国はそれで取り戻しているのだろう。
・後で税金で取られるので、賠償金をもらっても使えない。
・たとえば稲作ができない補償は、一反当たり1万円少々しかない。
・家は減価償却して補償金を計算する。
・東電に「まやえ」(方言で弁償しろ)と言ったところで、まやえる分けがない。
・原発から16㎞(居住制限区域)に家があった。津波で家が全部流されたために補償金が出ない。一部でも残っていれば出るのだが。
・農業をしていた。生業を返せと言いたい。除染は未だだ。
・築後100年の家に住んでいた。屋根に穴が空いて空が見える。雨漏りがする。補償は建ててから何年で価値を査定(減価)されるが、それでは修理費用も出ない。
・「小高は、(補償金をもらっているから)いいな」と近隣地区の方から言われる。10万円なんか返上したいくらいだ。
・家は津波で流されたが、残骸も残っていないので東電からの補償金は出ない。
・土地は買い上げてもらったが、坪2~3万円だった。
・東電の補償の「低額さ」と「不公平さ」と「曖昧さ・不透明性」(みなさん)
10)イベントの後で
・こんなに集まったのは始めて
「楽しかった。長生きした甲斐があった。」
・「今度は、夜に来てくれないか。月一回でもいい。」
・今日は一日楽しませてもらった。
・久し振りに外に出た。(手押し車で参加された女性)
・久し振りに笑うのも良いかなと思って参加した。
・こんなにしてもらって涙が出る。(高齢の婦人・涙を拭きながら)
・5年振りに大笑いした。
・夢みたい。(集会所に入ってきた時に)
・楽しかった。毎日することがないので有り難い。
・今日はリハビリに行く日だったがこちらに来た。
・家で一人で笑っていてもつまらない。
・こんなに笑ったのは初めてだ。
・今日は、用事があったが残っていた。
・ボランティアは年に何回か来る程度。今回は久し振りだ。また来てもらいたい。
・この集会所(談話室)で昼間に皆で食べたり飲んだりしたのは初めてだと思う。(管理人さん談)
・「おいしかった。その内また来てください。」
・ご飯がおいしかった。たくさん炊いた米はおいしい。
・コーヒーがおいしかった。有り難い。
・(腹話術の「言ちゃん」に)孫みたい!
・あの子(腹話術の言ちゃん)にまた会えてよかった。(103歳の女性)
・(仮設で共に暮らす)夫に新米のご飯を持って行ったら涙を流して喜んでいた。
以上が、1200人にお会いし聞いた生の声の一部です。ここまで読んでいただければ有り難いことです。
【3】フクシマの被災者と共生するための覚書
共生に役立ちそうな、このディアコニアの「What」と「How」の説明をします。
◆共生
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』とイエス様は語られました。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25:34~)と、“困窮”を列挙しています。
人の窮状に鈍感では、行為は起こりません。共生の起点は、見ること知ることです。
◆ディアコニア
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)
「人の子は仕え(ディアコネオー)られるためではなく仕える(同)ために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
私自身の働きを、ボランティア=「自主的に社会に無償で奉仕」とは考えません。志願兵ではなく、神の徴集(招集)兵であり、神に召され、主に仕え倣う働き、ディアコニアです。
◆原発被災者の元へ
原発事故直後を除き私の被災者支援は、多くが教会主催のイベントに協力する形でした。
名古屋岩の上教会、いわき市のカトリック教会、軽井沢キリスト教会、後藤一子牧師、のぞみセンターなどです。
私は、不在時以外ほぼ毎日原発関連の報道をまとめてメルマガにして100人位の方々に発信を続けています。
事故直後から継続していますが、今年は1月~10月で、130回になります。
原発被災者は、困窮、先が見えない苦悩、被曝し、被曝し続けている恐怖、補償の不合理さ、行政に対する不満、数え上げれば切りがないほどの問題に直面しています。
これを知ってしまうと、「被災者の元に行かなければ」という思いに駆り立てられます。
今のルートに限っていたのでは、多数に原発被災者には出会えない、どうすればもっと被災者に近づけるかを模索していました。
ちょうど昨年暮れ、ある団体との提携の可能性がなくなったのを契機に、
「自ら支援ルートを構築し、原発被災者に出会う」ことにしました。
◆支援ルートの開拓
当然ですが、被災者に届くルートは、社会福祉協議会(社協)などの市町村仮設住宅の窓口が最適です。
窓口は、市町村によって異なり、社協でなく役場の生活支援課とか教育委員会だったりします。
ご存じの方も多いと思いますが、ボランティアにとって、社協には制約されることも多く、言わば難関でした。
必死でコンタクトしました。
案内のチラシを見てもらい、社協や役場の事務所でコーヒーを淹れ、庖丁やハサミを研ぎました。
変なおじさんと思った方もいたでしょう。
研ぎ終わらずにビジネスホテルの洗面所で続きをし、翌朝届けたこともありました。
今ではどの市町村からも、とてもよく協力していただけるようになりました。
「ここに行きたい」と連絡すれば、叶えていただけます。
彼らは、私にとってディアコニアの同労者であり、財産です。
◆支援(イベント)の中身
最新のメニューは、「腹話術」「DVD上映(現在は「綾小路きみまろライブ」その後は「笑点大博覧会」)」「カフェ」「軽食」「庖丁研ぎ」です。
参加者の反応を見ながら、メニューの取捨選択をして、現在の形になりました。
大抵は妻千鶴子と2人、時々私1人。お手伝いがある時は数人。
人数が少ない時は、小規模仮設に行き、イベントが終わってから庖丁研ぎをします。工夫すれば問題はありません。
結局は商売だったというイベントもあったそうです。
「どこから」「何で」ここに来たのか、この説明をするのにサマリタンハウスのことを語ります。
そして隣の県(宮城県)出生まれ、今も半分はそこに住んでいると説明しています。
年甲斐もなくやや派手なシャツを着て、ヒゲをのばし、バンダナをかぶり、陽気に楽しそうに振る舞っています。
妻には、「非日常」とか言い分けしていますが、接待する側がまず楽しそうでなければ、そう思っています。
仮設住宅でのイベントは、会社の営業と共通しています。
最終目的が「共生」と「利益」に分かれるだけです。
まず、商品(イベントの中身Product)が、お客様のニーズに合っていなければなりません。
次が流通(場所・チャンネル)です。
いくら良い商品でも販売ルートが適切でないと、お客様に届きません。
そして、プロモーション(広告・販促)です。
とにかく、「皆さんが仮設の部屋から出てきたくするには?」をいつも追求しています。
「出てこないのはPRが悪いか、メニューに魅力がないから」と自戒しています。
◆Café de FUKUSHIMAと庖丁研ぎ
コーヒーの焙煎は、定年後の道楽候補でした。
昨年息子に手ほどきされ、実用レベルに達しました。
「カフェ」や「お茶っこ」は、仮設住宅でのイベントの大定番です。
これに使えないかと、Café de FUKUSHIMA と名付けました。
お年寄りも驚くほどコーヒー好きです。今はイベントの看板になっています。
包丁研ぎは、昔からの趣味の一つが魚釣りで、必要に迫られて覚えました。
仮設住宅では自転車のパンク修理などいろいろな支援をしましたが、包丁研ぎがどこでも歓迎され、定番になっています。
パソコンやビデオ操作は会社で覚えました。人生で経験したことが、今いろいろと被災者のお役に立っているのは不思議です。
◆腹話術「泣いた赤鬼」
「言ちゃん・5歳」という設定で、毎回イベントの前座を担っています。
「言ちゃんは、恥ずかしがりで、大声で呼ばないと出てこない。
皆さん大きい声でげんちゃーんと呼んでください。はい!」。
集会の雰囲気はこれで一気に変わります。
出るなり「孫みたい」と声が掛かります。
どの仮設でも子供の姿はほとんどありません。
家族が分断され、子供のいる家庭は遠くに避難し、孫にも会えない方が多く、たとえ人形でも見るとほのぼのとする様子が見て取れます。
被災地で活躍(?)している腹話術は余り聞かず、腹話術を初めて見た方がほとんどです。
妻千鶴子の教会学校用に習得した技が、被災者の方々のお役に立っています。
◆サマリタンハウス
ずっと前からのことですが、被災地に住んで被災者の支援をすることを願っていました。
復興需要でホテルさがしに毎回苦労しましたし、カフェの道具・食料の保管場所があったらもっと充実した支援ができると考えていました。
候補地は、支援者が多くいるだろう東京から遠いところ、原発の北側です。
しばらくさがしましたが、南相馬市から相馬市・新地町は、需要が多くて売り物件そのものがほとんどありません。
今年初めに宮城県亘理郡山元町で見つかりました。
売りに出て最初の内覧者が私でした。支援基地としては申し分ない物件で、その上信じられない値段でした。
直ぐ予約しました。
神様に与えられたとしか言いようがありません。
社協の若い職員に私が山元町に半分引っ越したことを話した時「信じられない!」と言われました。
キザですが、ディアコニアのために借金はしていません。
全て神様からら与えられたものを使っているに過ぎません。
タラントを土に埋めた人にはなりたくありませんので。(マタイ25:14~)
原発被災者は、現代の強盗に襲われた人。
彼らを支援するという願いを込めてルカ10章からサマリタンハウスと命名し、看板も出しました。
看板が私の決意表明です。
ここからなら南相馬・福島・二本松・本宮まで、少し無理すると会津若松・三春まで「強盗に襲われた人」を訪ねることができます。
イベントでの自己紹介は、「サマリタンハウスから来た」と語り、「サマリタン」の意味を聖書から説明しています。
床上50㎝の津波被災をした家です。
ご近所は皆さん避難所(仮設)暮らしの経験者です。
お隣は、かつて支援に出向いた仮設におられた方です。
家の使い途をお話しすると、直ぐに打ち解け、親しくしていただいています。
宿泊は10名まで可能、車は数台以上駐車できます。
◆支援を支援する
案内チラシの各戸配布とポスター掲示は必須ですが、ほとんど自分で配ることはありません。
役場や自治会長さんなどが引き受けて下さいます。
皆さんは、被災者支援の「同志」であり、ほとんどの方がご自身も被災者です。
東北ヘルプからは交通費の援助を頂いています。
私の毎回の報告をホームページに転載してくださいます。
港南台キリスト教会は、地域で「チャリティー庖丁研ぎ」を開き、その収益金を献げてくださいました。
教会員の方々は、毎回カフェ用のお菓子を大量に提供してくださいます。
カベナントチャペル日本人教会(ソウル)や名古屋岩の上教会からは資金の援助を頂いています。
世界宗教者平和会議(WCRP)や企業系の福祉財団からも資金提供がありました。
拙宅(横浜)の向かいの杉森さんは、「私は出掛けられないので漬物で協力します」と、毎回大量のぬか漬けを提供してくださっています。
漬物好きの東北人である参加者は、
「(ぬか漬けの)ニンジンの味をここまで出すのは相当なもの」
などと、どこの仮設でも喜んでいます。
イベントに参加された方々には、仮設には来ることができない支援者がいることを具体的に紹介して、
「皆さまのことを忘れずに、応援しています」
とお伝えしています。
有志として手伝ってくださる方々もいます。手弁当です。
その中には、福島から横浜に避難している方もいます。
相馬伸郎牧師(名古屋岩の上教会・改革派教会大会執事活動委員会福島担当)、
大和キリスト教会の遠藤さんご夫妻(アロマテラピーや庖丁研ぎ)、
横浜長老教会の武田執事ご夫妻、
新座志木教会の愛智愛一家(私の娘と孫3人)や他の家族も、みなさん現地での協力者です。
名古屋岩の上教会、
軽井沢キリスト教会、
後藤一子牧師、
パガラガン宣教師ファミリーは、互いに協力してイベントを開いています。
また、仮設の地元の諸教会に状況を伺い、訪問予定をお知らせすることもしています。
元々力がないキリスト教会ですから、「束になってかかる」ことが力になり、よい証しにも繋がります。
一緒に支援する人、支援を支援する人々の存在が、「皆さんのことを決して忘れてはいない」ことを被災者に示します。
「忘れ去られる恐怖」を抱く皆さんにとって、厚みのある支援は、大きな励ましになります。
これらの方々は、資金を計算しない、1人でもやると始めた私への神様の後押しです。
◆「南相馬ガンバロー」「小高ガンバロー」「浪江ガンバロー」
毎回、集合写真を撮影します。
イベントの様子を記憶する私自身のためにも、皆さんにお願いして撮らせてもらっています。
最近は、「南相馬ガンバロー」「小高ガンバロー」「浪江ガンバロー」とみんなで拳を上げた写真も撮っています。
皆さんに、「…ガンバロー」か「…に帰るぞ」か「…を返せ」か、とお聞きしたところ、「…を返せ」を選ぶ方がダントツでした。
「…を返せ」が、一番心情にぴったりなのだと思います。貴重な新発見です。
◆傾聴
今のディアコニアで一番不足しているのは、「聞き手」です。
つまり、楽しさやおいしさを共有する時間は1対多数でできても、被災者の今に耳を傾け、「共生」に繋げる時間は耳の数が必要です。
参加者の数だけ耳もあれば、皆さんのお話が聞けるのです。
今のイベントのスタイルだと、30分は傾聴に充てることができる。
傾聴は、ディアコニアの肝だと思います。
そして、被災者の生の声を聞いた人は、地元で「被災者についての語り部」になっていただけると思います。
◆減らないニーズ・激減したボランティア
原発の仮設は、実感として90%前後の入居率だと思います。
避難は長期化し、高齢化も進んでいます。支援のニーズは減っていません。
一方で、「ボランティア震災直後の10分の1に減少」
(社協を通したボランティアが、発生直後福島県で127,792人だったが、昨年度は15,066人)(NHK 2015.5.11)。
これは当地に住む被災者の実感に合っています。
仮設住宅に限らず、必要としている所をさがし、被災者・被害者の皆さんと共生ができればと思っています。
各仮設からの再訪要請、社協などからの協力要請も届いています。
そして、仮設に限らず、被災地の福祉施設・復興住宅・子供たち・高齢者は、今も助けを必要としています。
【4】最後に
目標だった年内の「全仮設住宅訪問」は、ほぼ叶いそうなので、来年は2巡目に取り掛かります。
「人数でなくニーズの多い仮設住宅」を訪問する予定です。
小規模仮設でも30戸程度あれば訪問を打診します。
どの家にも「訪問販売・宗教勧誘お断り」のステッカーが貼ってあった仮設がありました。
一方で、「今来てくれるのは宗教(者)だけ」とある自治会長は語りました。
ディアコニアは、宗教活動(宣伝・伝道)でなくても、犠牲が伴う証しです。
私が名乗っている「キリスト教」への感謝や尊敬は、彼の地での宣教の土台になることでしょう。
ディアコニアは、「論じること」でなく「行う」だと思います。
出掛けて行けばニーズも見えてきます。
出会いがあり、喜びがあります。
暇つぶしの相手でもいい。
話を聞く、寄り添う、共感する、共に生きる。
皆さんの今の苦境に同情し連帯する。
私は「決して忘れてはいない」ことを表明し続けます。
仮設住宅のニーズは、2~3年でなくなることはありません。
私の老化との競争です。
私同様会社を定年になった方が、「サマリタンハウス」や被災地とのチャンネルという
ディアコニア資産の後継者になっていただければと思います。
石川 和宏