仮設住宅などでのディアコニア(奉仕、支援)報告書
2015 年 6月 1 日


石川和宏さんの報告を皆さまにご報告させていただきます。

支援活動で2つの忘れてはならないことがあります。
一つは、今被災地で起こっていることをありのままに見つめることです。
起こっていることをまず第一の資料として、そこに生きる人々が必要とすることや自立を支援することが、まず第一に必要です。
それが支援の第一歩です。

同時にもう一つを忘れてはなりません。
常に客観的な資料を当たり、現状を分析することです。

このことを東北ヘルプでは、始めに「密着と直結」という言葉で表そうとしました。

今回の石川さんのご報告は、末尾に詳細な資料を付してくださいました。
常に資料をあたり、現実に起こっていることが何なのかを問い直していく。
支援の現場で最も必要な、「現場への密着」と「世界(情報)への直結」ではないでしょうか。

すばらしい石川さんのお働きのご報告を分かち合わせていただいておりますことに感謝し、お働きの成功を祈りつつ、お届けさせていただきます。

(2015年6月20日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)

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仮設住宅などでのディアコニア報告書(4)

2015 年 6月 1日 石川和宏
*報告期間:2015 年 5 月 22日~5 月 30日

【1】本宮市 高木仮設住宅(5 月 23 日 (土) ) (写真1)
・浪江町から避難した方々の住む仮設住宅。サマリタンハウスから 110 ㎞、高速道路道経由で約 2時間。
・浪江町二本松出張所の紹介(アレンジ)して頂いた。
・浪江町の仮設住宅は本宮市に 9 ヶ所ある。本宮市で支援するのは始めて。
・高木仮設は 84 戸建設で、その内 20 戸を相馬市に移設。現在の入居数は 40 戸。
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)・カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏

支援の結果
・参加者 16 名(40 戸で 16 人なので、参加率としてはかなり高い。)
・包丁研ぎ 15 世帯 28 本
・自治会長・管理人などの皆さんにお手伝いもして頂いた。炊飯釜・コーヒーポット・タッパーなど全部洗って頂いた。荷物の積み込みもやって頂いた。
・コーヒーもコーヒー豆もご飯も、欲しい方がおられ、残ったものは喜んで全部差し上げた。

皆さまからお聴きしたこと

*イベントは、年に何回かだ。(かなり少ない。大都市郡山、更に比較的東京にも近いことからすれば、意外な感ありです。)
*最初は町内の体育館、次に津島、その次が飯舘村へ逃げた。汚染された(線量の高い)ところに逃げた。
*何も持たず避難した。せいぜい 2~3 週間で帰れるだろうと思って逃げたのだが…。
*避難先は 8 ヶ所目だ。
*仕事をしていると「補償金もらっているのに」と言われるので、嫌になって辞めた。皆そうだ。
*浪江町は、海の人と山の人で言葉遣いが違う。
*東電からの補償金(月額 10 万円)は安すぎる。到底失ったものの比ではない。
*そんなのは要らないから、原発事故以前に戻せと言いたい。
*東電は血が通っているのか。
*ここではすることがない。みんな暇だ。
*砥石等みんな浪江に置いてきた。(庖丁を研いでいる時に)
*4年間で何も変わっていない。
*賠償金をもらっても税金が高く、国はそれで取り戻しているのだろう。
*後で税金で取られるので、賠償金をもらっても使えない。

参考:支払を受ける賠償金のうち、必要経費を補てんするためのものや営業損害のうち減収分(逸失利益)に対するもの、就労不能損害のうち給与等の減収分に対するものなどは、事業所得等の収入金額になります。(国税資料)


【2】会津若松市 松長近隣公園仮設住宅(5 月 25 日 (月) )
・全員が大熊町から避難した方々の仮設住宅。
・福島第一原発の 1 号機から 4 号機の所在地であり、原発事故発生地元である。(5 号機および 6 号機は北隣の双葉町)。1954 年に大野村と熊町村が合併し大熊町になった。
・町民宅は、96%が「帰還困難区域」になっている。
・全町民・11,500 人が避難している。町役場も会津若松市にある。
・大熊町会津若松出張所生活支援課に紹介して戴いた。
・サマリタンハウス(山元町)から 100 ㎞、高速道路経由で 2 時間 30 分
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)腹話術「泣いた赤鬼」カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏・石川千鶴子

支援の結果
・参加者 12 名(男 5・女 7)
・庖丁研ぎ 10 世帯 10 本

皆さまからお聴きしたこと

*大熊町には東電の社員が全国から来ていた。入れ替わりもあり田舎にしては風通しがよく、外から来る人を受け入れる気風があった。(大熊町は、就業人口の約40%が、東電社員もしくは関連の仕事と言われており、家族も含めれば半数以上が東電関係者だったと思われる。)
*遊びに行っている人が多い。午前のオチャッコは、3 人だった。
*3 分の 2 の人はこの仮設から出た。いわき市の仮設や郡山の復興住宅に移った。
*理由は告げられず、体育館に集まれと言われ、着の身着のままで集合した。そこからバスに乗せられ連れて行かれた。運転手に「どこに行くのか?」と尋ねたが、「分からない」だった。
*一泊か二泊で帰れると思った。
*田村の体育館に行き、その次は塩原に行った。
*畑にいた人は長靴のままで避難した。
*日中は暑かったので薄着だった。そのままの服装で避難生活に入ったので寒かった。
*会津若松は、病院が充実している。いわき市から会津まで車で病院に通う人もいる。
*会津の人は(他と違い)避難者に対して優しい。歴史的に差別された経験が今も息づいているから。
*一時帰宅は、4 時間以内。防護服を着る。自宅には水も電気も通ってない。
*月一回だったが年間 15 回まで行くことが出来る。
*田んぼは藪になってしまった。
*自宅や田畑を見ると涙が出る。先祖に申し訳がない。























【3】会津若松市 河東仮設住宅(5 月 26 日 (火) )
・全員が大熊町から避難した方々の仮設住宅。
・当初は 73 世帯 209 名いたが、今は 22 世帯 50 名
・大熊町会津若松出張所生活支援課に紹介して戴いた。
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)腹話術「泣いた赤鬼」カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏・石川千鶴子
・自治会長木幡 仁(こわた じん)様に対応して頂いた。木幡会長は、町の行政区長もしている。

支援の結果
・参加者 7 名
・包丁研ぎ 6 世帯 11 本
・10 時~2 時までの間、皆さんと話が出来た。

皆さまからお聴きしたこと

*みんな亡くした。
*地域社会(ご近所付き合い)が破壊されたのが残念だ。
*町は、人口 11500 人だったが、全町民避難で、会津に 4000 人、いわきに 2000 人逃れた。
*その後会津は 1600 人に減少、いわきは 4000 人に増えた。
*理由は教えてもらえず、避難した。地震で避難とはおかしいなと思った。
*とにかく西に行けということだった。
*都路に行ったが先に着いた人で体育館(避難所)は一杯だった。
*磐梯熱海に行った。
*13 日にテレビで原発の爆発を見て、それで始めて(避難指示の)理由が分かった。
*消防も無線の電池が切れて、情報を持っていなかった。
*大熊の子供は 53 名いたのだが、今は 8 人になった。
*4 畳半と 6 畳の二間で暮らしている。狭い。こたつを置くと布団が敷けない。
*会津にいる大熊の子供は、幼稚園 5 人、小学生 5 人、中学生 9 人。
*少ないのでクラブ活動や運動(競技)が出来ない。集団行動を教えられない。
*最初に避難した体育館から下着などの必需品を買うため、車がないので徒歩で出掛けた。たくさん歩いたがどこも売り切れで、困った。トラックに乗せてもらうこともあった。お金が自由に使えるようになってすぐに車を買った。(車は大熊から持ち出せなかったため)
*孫が9人いたが、ミルク・オムツがなくて本当に困った。
*ネズミにかじられて、床柱が細くなってしまった。
*6月になってから、一時帰宅が出来た。都路に集合し、防護服に着替え、現地滞在は 1 時間だけ。
*牛が家の中に入る。
*震災後働けなくなり、足が悪くなった。
*いわき市に家を建てた人がいる。大きな家を建てて住民(いわき市民)の反感を買っている。 家を建てるにしても目立たないところに建てた方が良いと思う。
*仮設では、することがなく、仮設の隅(土手)で野菜を育てている。(写真2参照)
*今の時期は田植えがあった。身体がうずうずする。
*280 戸あったが 2/3 は出ていった。残っている人も日中は余り家に居ない。
*会津若松の水道水は、飲む人も飲まない人もいる。
































・原発での作業について

○一回の作業で 80 ミリシーベルトを食う人もいた。
○敷地内で、消防車が爆風のため横倒しになっていた。
○道路が作業員の車で混む。朝 5 時に出ないと作業が出来ない。
○通う車がないので、トラックの荷台に乗った。警察も黙認だった。
○防護服・防護マスクを絶対離せないので水が飲めない。トイレに行けない。
○体育館でマスクをして寝るように言われたが、そうは出来なかった。









【4】相馬市 大野台第 6 仮設住宅(5 月 27 日 (水) ) (写真3、4)
・飯舘村から避難した方々の住む仮設住宅。飯舘村役場生活支援課に紹介して戴いた。
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)腹話術「泣いた赤鬼」。カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏・石川千鶴子
・後藤一子牧師と共同開催。相馬キリスト福音教会の安部姉にもお手伝いして頂いた。
・自治会長 庄司勝さん、管理人北原さん
・総戸数 164 戸に 144 世帯が住んでいる。

支援の結果
・参加者 34 人(内男性6名)
・包丁 16 世帯 20 本
・3 時近くまで、皆さんに故郷の話しを聞かせて頂いた。

皆さまからお聴きしたこと

*イベントは月一回より少し多いくらいある。
*楽しかった。毎日することがないので有り難い。
*浪江・大熊から逃げてきた人のために3日間炊き出しをした。その時、本当は飯舘から逃げなければならなかったのだが。
*米を紙コップに入れ水と塩を加えて蒸してご飯にして提供した。
*7 月 12 日まで 4 ヶ月間飯舘の家に居た。被曝したと思う。
*孫は川俣に避難したが、学校で「飯舘は側に来るな」と言われた。学校に行かなくなってしまった。
*仮設でなく一軒家を探したが、空き家はどこにもなかった。それでこの仮設に入った。
*2人~3人世帯なら4畳半2間。狭い。
*3人で3K(6畳、4畳半2間)のケースある。
*息子が働いているが、どうしても朝は一緒に目が覚めてしまう。
*子供家族が訪ねてきた時には、重なって寝るようになる。
*除染したが、しばらくして線量が前に戻った。
*今でも飯舘の家で犬や猫を飼っている人も居る。餌を時々運んでいる。
*「2 年すれば戻れる」と当初言われていた。2年たったら「また 2 年」と言われた。「2年の根拠は我慢の限界」とのことだった。馬鹿にされたようだ。



















飯舘村について

○マラソンコースを作った。牛は、飯舘牛としてブランド化しつつあった。
○トルコキキョウなどの花を作っていた。山間なので寒暖差が大きく、きれいな花で、長持ちする花を作ることが出来ていた。
○水は旨かった。川ではイワナなどの魚がたくさんとれた。








【5】南相馬市 小池第 3 仮設住宅(5 月 29 日 (金) ) (写真5)
・南相馬市の社協に「原発被災者が多い仮設住宅」として紹介して頂いた。
・サマリタンハウスから高速道路経由で 40 分。
・建設戸数 127 戸 入居世帯数 100 戸 入居者数約 200 名
・南相馬では最初に出来た仮設住宅で、お年寄りを優先して入居させた仮設住宅。高齢者が多かった。
・住民は南相馬市小高区(全住民避難)の方が多く、鹿島区の方もおられる。
・小高区はほぼ全域が「避難指示解除準備区域」である。区の西側に「帰還困難区域」と「居住制限区域」もある。
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)・カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏

支援の結果 ・参加者 34 名(全員が女性!)他に絆職員の方 2 名が同席しお手伝いしてくださった。感謝。
・包丁 32 世帯 61 本(内はさみ 4 本)

皆さまからお聴きしたこと

*避難所の体育館で、夜うなされた。他にもそういう人がいた。
*近くにあったストーブの音が津波の音に聞こえ大声を上げた。みんなを起こしてしまった。
*4 畳半に寝ているが、狭くて橫になれない。布団を敷くとトイレの戸が開けられなくなる。
*米作りを始めたが、食用には出来ず、飼料米を作っている。放射能は大丈夫かなと思う。
*2011 年 5 月 28 日(3.11 から約 80 日後)に始めて一時帰宅が出来た。
*身重の息子夫婦がいたので、茨城県など 8 ヶ所を転々とした。
*ご飯が美味しかった。たくさん炊いた米は美味しい。













【6】まとめ
・今回は、比較的短期間に 5 ヶ所で奉仕した。
・出会った方々は、合計 103 名。庖丁は 79 世帯、132 本
・会津の仮設住宅も大熊町民の方々も、予てから訪問したいと考えていて、今回実現した。日帰りは無理なので、一泊二日で 2 ヶ所の奉仕をした。
・腹話術の「言ちゃん」は、「孫みたい!」とどこでも歓迎された。
・自己紹介で今回から「サマリタンハウスから来た」と言い、ついでに聖書の「サマリタン」の説明をした。
・普段集まるのは 10 人程度と聞いていた南相馬市の小池第3仮設住宅では、35 人(プラス絆職員 2名)集まって頂いた。皆さんが求めていることを実感した。
・皆さんに、腹話術、コーヒー、きみまろ、漬け物とご飯をとても喜んで頂いた。
・たくさんの糠漬け・ピーナッツ味噌を託して頂いた(お向かいの)杉森さんに感謝したい。
・再訪を約束した所もあるので、是非行きたいと思います。
・今回から、記念撮影時に、「南相馬ガンバロー」「小高ガンバロー」と皆さんに拳をあげて頂いた。
・始めてのことですが、原発立地の大熊町の方々にも会津まで行って出会いました。東電の企業城下町です。他の原発被災地との違いをひしひしと実感しました。出掛けないと分からないことです。
(「大熊町と原発」として【7】項にまとめました。)


【7】参考:大熊町と原発 (大熊町ホームページより)
平成24年12月には、町民の約96%が居住していた地域が「帰還困難区域」に再編され、町としても「5年間は帰町しない」という判断をいたしました。
町の主要機能を含む町土の大部分が帰還困難区域に指定され、当該区域については本格除染の計画がない状況にあるなど、復興に向けた多くの課題に対して明確な時間軸の設定が出来ない状況にあり、全町民の避難から4年以上が経過した現在においても、具体的な復興への取り組みが出来ておりません。町は、賠償、住宅の確保、風評被害といった短期的喫緊の課題から、町政機能(学校含む、いわゆる「町外コミュニティ」)、除染、中間貯蔵施設、廃炉処理といった中長期に渡る事項まで多様な課題に直面しています。

(大熊町職員労働組合資料より)
1960 年の納税義務者内訳は、給与所得者が 248 人に対して農業所得者 1,514 人。1970 年までは、農業所得者が上回っていたが、1975 年には給与所得者が 1,902 人に対して農業所得者が 340 人になり、農業所得者の減少傾向が著しい。その後、この差は拡大を続けるが、2008 年では 4,273 人に対して41 人にまで減少した。この分岐点となった 1970 年は、原発1号炉の運転開始の前年にあたる。当然、関連企業も含めて多くの人手が必要となったことも要因として考えられる。
この原発関連での労働提供の内容は、雇用状況調査からも明らかである。2009 年7月現在で、大熊町民 1,562 人が東電若しくは関連企業で働 く状況にあり、双葉郡内で約 20%、県内で原発労働者の1割が大熊町民だった。


【8】参考:浪江町と原発
・浪江町民の総数 21,020 人の内、福島県内の避難者数 14,605 人、県外は 6415 人。

○クローズアップ現代 2014/2/28 12:19
福島・浪江町が消えていく…国が方針転換「もう帰らなくてもいいんじゃないの!?」移住者にも賠償金 2014/2/28 12:19 7

福島原発事故からまもなく 3 年になる。住み慣れたふるさとを離れ避難生活を余儀なくされている人たちはまだ 14 万人もいる。これら被害住民の人たちはいま、ふるさとへの帰還か断念か苦しい選択を迫られている。国が昨年 12 月(2013 年)、ふるさとへ全員帰還の方針を覆し、よその土地への移住を選択する人にも賠償する方針を打ち出したからだ。さらに、今年 3 月末の除染完了の時期を3 年間延長する方針も打ち出した。
被害自治体では今後、帰還をあきらめ他所へ移住する人が増えると予測し、町づくりの根本から見直しせざるを得なくなっている。そうした自治体の苦悩、住民の苦渋の選択を避難住民が最も多い浪江町を通して探った。

何のための帰還準備・復興なのか…町役場に無力感
福島第 1 原発から 9 キロの浪江町は、町の多くが帰還困難区域、居住制限区域で占められ、避難住民は 2 万 1000 人にもなる。全員帰還を目標に掲げてきた町では、ふるさとに帰りたいという住民が年々減少し、昨年夏に行なったアンケート調査では 18.8%になっていた。国の方針転換で帰還を選択する人たちはますます減るのではないかという危機感が強まっている。

昨年 7 月から日中の 7 時間だけ立入が許可されて以来、浪江町の渡邉文星副町長は避難先から週3 回町役場に通っている。浪江町のなかでも放射線量が比較的低い役場には、34 人の職員が同じように避難先から通って帰還・復興のための準備を進めてきた。壊滅的な被害を受けたインフラの整備計画や散り散りになった住民の所在の把握、国に対し早期の除染を求める働きかけ。渡邉はその陣頭に立ってきた。膨大な作業、遅れる除染。それでもみな諦めずに取り組んできた。 しかし、国は他所へ移住し、新たに住宅を購入した場合は、元の住宅との差額を最大で 75%賠償する施策を打ち出した。これでは町に戻る町民はさらに減り全員帰還は難しくなる。何のために復興に取り組んでいるのか。渡邉は改めて町民の気持を確かめたところ、帰れるなら帰りたいという意見が多かったが、多くの人が気持ちの支えを失いつつあることもわかってきたという。

B‐1 グルメ『浪江焼そば』を振舞って避難住民を励ましていた浪江町商工会のリーダー八島貞之は、家族を抱え新たな土地でゼロからスタートしたが、ふるさとに戻る希望を捨てきれずにいる。事故前は浪江町で鉄工所を営み、両親と妻、2 人の子どもを養ってきた。しかし、被災後は家族の負担が大きく両親とは離れ離れだ。いわき市に家を買ったものの、移住先で仕事は見つからず、浪江町に隣接する南相馬市に単身移り鉄工所を借りた。浪江町の近くならばツテを頼って仕事が見込めると考えたからだが、甘かった。かつての取引先が戻っていないなかで、仕事は被災前の 2 割に留まっている。

八島はいま従業員 20 人の生活を支えるために、除染作業や日雇い業務など本業と異なる仕事に頼らざるを得ない状況を続けながら、こんな感想をもらした。

「『浪江の人たちはどうせ補償とか賠償とかしてもらうんだから、こっちまで来て仕事をしなくてもいいんじゃないの』なんていうことをチラッと言われたこともあります。やっぱりコミュニティーがあって、ふれあいがあって、仕事も生活もいろんな人に支えられて生活してこれたんだなとすごく実感しました。今は浮き草のように流されている感じがします」

拠り所を失い、戸惑い、心の支えを探しあぐねている。この悩みは八島だけではなく、家族を抱える住民みなが抱える悩みだろう。

帰還でも断念でもない「待機」という第 3 の選択
福島県いわき市出身の社会学者で、住民の聞き取り調査を続けている開沼博・福島大学特任研究員が解説した。
「国の方針転換で、帰還する人、移住する人、それぞれに権利があると考え、一歩前進と捉える人もいます。ただ、それで問題解決したわけではありません。外から見ていると、『帰還したいの? じゃ、今すぐ帰りたいの』と単純に見てしまいがちですが、そうではありません。もし仕事があったらとか、ちゃんと店ができたときに帰りたいという人もいる。帰還か移住かだけでなく、第 3 の選択肢として『待機』をみていく必要があります。『待機』しているなかで何ができるのか、という議論を進めていくのが 4 年目の重要な課題になると思います」

そんななかで浪江町に新たな動きも出てきた。町の代表者や有識者が集まり、原発事故を収束させる拠点、廃炉のための拠点として、原発事故現場に近いのを利用して除染や廃炉に携わる企業の誘致や作業員のための宿泊場所を作ってはどうかというのだ。元通りでなくても、町を取り戻そうという計画を進めている。

渡邉副町長は新たな拠点作りに動き始めた。放射線量の少ないエリアを集中的に整備して帰還する町を集約しようという計画だ。渡邉は「ふるさとがなくなり、町がなくなる。そうならないように何とか町づくりをするしかない」と話す。

町民代表や町役場のいずれの動きも、孫や曾孫の代を見据えたふるさと再生への固い決意が見える。

*NHK クローズアップ現代(2014 年 2 月 26 日放送「『よりどころ』はどこに?~原発避難から 3年・浪江町の選択~」)





写真1 本宮市高木仮設住宅


写真2 仮設住宅の土手に作られた畑


写真3 大野台第6仮設住宅 お茶っこの様子


写真4 大野台第6仮設住宅


写真5 南相馬市小池第3仮設住宅

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