仮設住宅などでのディアコニア(奉仕、支援)報告書
2015 年 5月 15 日


今週も放射能被災地で活動を続けられている、石川和宏さんの報告を皆さまにご報告させていただきます。

被災地の現在、支援の今を知るために、大切なことがあります。
定点観測のように、一つの地域、一つの働き、一つの団体を追い続けることです。
状況や働きの変化は、被災の今を知るための優良なモデルとなります。
そしてそのモデルをつなぎ合わせることで、はじめて全体像を俯瞰することができます。
石川さんのお働きは被災地の今を知る意味で、最良のモデルではないでしょうか。
個別の状況の違いはありますが、ご報告の中で被災者の生活の息遣いの一つ一つを、
しっかりと捉えられているからです。

どうぞ、報告書を通して、被災された方々の今と、
石川さんのお働きを祈りに憶えていただきたいと願っております。

(2015年6月15日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)

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仮設住宅などでのディアコニア報告書(3)

2015 年 5 月 15 日 石川和宏
*報告期間:2015 年 5 月 2 日~5 月 9 日

【1】「太陽の村」一日ピクニック(5 月 4 日)
・これは、名古屋岩の上教会の 2015 年 5 月連休ディアコニアとして行われたもので、サマリタンハウス(石川和宏・千鶴子)は企画段階から参画しお手伝いをした。
・参加した子供(全員小学生)10 名(親も含め当初 16 名の応募があったが、風邪等で減少)
・募集対象は、南相馬市仲町児童センターで学童保育を受けている小学生 ・全員が南相馬市石神第二小学校の児童だが、この小学校は多分「最も原発に近い小学校」であるし、親は日中不在である。
・また、2~8 歳の時に、原発爆発時の緊急避難という恐怖の原体験を持ち、仮設住宅等の仮住まいを経験した子供たちである。そして今も「被曝を恐れながら」暮らす。
・屋外で遊べるようになったのが昨秋からとのこと。今でも周囲の線量は高い。
・小学校から児童館まで、被曝を回避するために全員バスで送り込まれる。登下校も徒歩ではしない。
・南相馬市の小学生は、避難先から戻ったのは半分以下(中学生は 60%が戻った)。
・親が(線量の高い)ここに住んでいるのは、仕事などの事情によるもので、「被曝」との折り合いをつけた結果である。
・敷地内の公園の線量表示は「0.113μSv/h」。児童館の庭の表示は「0.101μSv/h」。(2 度の除染後)
・高線量下で暮らす子供たちを心配のない所で遊ばせるという目的で、同趣旨の行事は南相馬市の PTAが行ったこともある。的を射た支援である。
・南相馬市社協の濱名主任主事などと社協の関連先である掲記児童センター高篠館長に募集などに関して協力をして頂いた。
・これは、当地の福祉や教育の関係者であれば、目的を容易に理解して戴け、岩の上教会の十数回にも及ぶ被災地支援の実績も評価し、得られた助力であることは間違いない。
・行事の詳細は、添付「1 日ピクニック案内」をご覧ください。
・参加した子供たちや実現に協力して頂いた南相馬市の関係者との交流を一回限りにすることはもったいない。「ニーズ」はしばらく消えないので、次に繋がるように生かせればと願います。
・参加者が児童館に集まるまでの間、子供たちと遊び、数人の母親に、受け入れ側の紹介をした。 これまでの原発北側(相馬市・南相馬市)での活動を紹介し、「にわかに来たわけではない。(ので信用して下さい)」と話し、お母さん方の警戒心を解くように心掛けた。
(写真1-5)


【2】南相馬市 仮設住宅支援 3 仮設同時開催(5 月 5 日)
・これも、名古屋岩の上教会の 2015 年 5 月連休ディアコニアとして行われたもの。 同教会から支援者が 13名あり、南相馬市の仮設住宅 3ヶ所同時開催で仮設住宅の支援を行いました。
・支援したのは、

*小池長沼(西)(200 戸の内の 1/3 くらい)全員が小高区の原発被災者
*小池長沼(東)(200 戸の内の 2/3 くらい)南相馬市の原発被災者と津波被災者
*寺内塚合第2(181 戸) 南相馬市の原発被災者と津波被災者






・支援の中身は、案内(写真7)をご覧ください。
「医療相談」と「紙芝居」は、担当する奉仕者が掛け持ちで、3 仮設で行うことが出来た。
・3 ヶ所合計で参加者は約 25 名
・サマリタンハウス(石川和宏・千鶴子)は、企画段階から参画しお手伝いをした。
・小池長沼(西)は、自治会長や皆さんとも親しいので、「今回は牧師が来た。差し支えなければ挨拶と共にお祈りをさせてほしい」と願い出て、賛同が得られ、相馬伸郞牧師が祈った。
・GW中で皆一時帰宅許可を得て自分の家に戻っている。駐車している車がとても 少ない。(自治会長談)
・(人気の)マッサージのボランティアが来た仮設で、参加者が2名だった。(社協談)
・奉仕者に都合の良い日が、仮設の方も出掛ける日であることは致し方ない。「出掛けられない人」もいるので、用いられたと思う。
・自治会長さんは、「遠くから来て、こんなにして頂いて、とてもできることではない。有り難い。」と語っておられた。
・参加した子供たちや実現に協力して頂いた南相馬市の関係者との交流を一回限りにすることはもったいない。「ニーズ」はしばらく消えないので、次に繋がるように生かせればと願います。
(写真6-8)


【3】小池長沼(西)仮設住宅エクステンション(5 月 5 日)
・岩の上教会チームが帰途についた後、引き続き昼過ぎまで支援をした。
・この仮設は、特に「再訪」の要望が強く、今回で 3 回目になる。
・提供したのは DVD 上映(綾小路きみまろライブ第4集)・カフェ・軽食 ・参加者 10 名 ・お聴きした話

*取りあえず着の身着のままで避難した。最初に戻れたのは2年後だった。それも滞在は2時間だけ。
*家は2年手付かずだとほとんどダメになってしまう。
*家は再建したいが、先ず壊すことが出来ない。壊しても廃材を持って行くところがない。燃やすことも禁じられている。
*小高から(廃材等)ゴミを持ち出せるのは、一日 10 トンと決まっている。
*この仮設住宅では孤独死が 5 人出た。
*イベントにもだんだん出てこなくなってきている。始めの内は出てくる人は今より多かった。
*小池長沼東(津波被災者向け)は、いずれなくなる計画になっている。
*来年 4 月に避難指示解除になる予定だが、除染がどう進むか?
*汚染された地域の宅地は買い上げる対象となるが、農地はダメ。米を作っても売れない。その農地を買う人もいるわけがない。
*飲料水は、買って飲んでいる人が多い。(写真9参照)

















【4】南相馬市 原町区社協一日デイケアー施設「元気塾」(5 月 7 日)
・社協からの要請で、今回は2回目。石川和宏と石川千鶴子が奉仕
・こちらの持ち時間は、約 2 時間、カフェ(炒りたて挽き立てコーヒーと手作りケーキ)DVD(映画)、それと今回は腹話術。お菓子類も提供した。
・参加者は 32 名 平均 86.3 歳、最高齢 103 歳、小高区(旧小高町)の人が多かった。
・お聴きした話

*息子家族は茨城に避難しそこで仕事についた。孫たちとは離れて暮らすことになってしまった。
*避難は、佐渡、新潟、吾妻総合体育館などに 6 ヶ月間が多かった。
*安達太良山に自主避難した。費用は自分持ち。
*避難中に持病があった夫が死亡した。
*戦争より大変だった。
(原町は、沖縄などに出撃した神風特攻隊の基地(陸軍飛行場・原発から 23 ㎞)があった。1945 年 2 月と 8月に米軍の空襲があり、飛行場の他紡績工場や機関区など軍需工場も攻撃され原町中心部にまで戦禍が広がった。)










(写真10)


【5】伊達東仮設住宅(5 月 8 日)
・飯舘村から避難した方々の住む仮設住宅。飯舘村役場生活支援課に紹介して戴いた。2011 年 7 月に完成した。サマリタンハウスから一般道経由で1時間 30 分の距離。
・提供したのは、DVD 上映(綾小路きみまろ第2集)腹話術「泣いた赤鬼」カフェ・軽食・包丁研ぎ 奉仕者は石川和宏・石川千鶴子
・参加者 16 名(内男性 1 名)
・包丁 17 世帯 30 本(内はさみ 4 本)
・2 軒で一棟の木造仮設住宅で、洒落た外観だが、壁は板一枚で隣の音は聞こえる。
・ご飯と漬け物の軽食を出した。我々の分が残っていないことに気付いた方が、ご飯とおかず(半熟玉子・茹でたアスパラ)を持ってきてくれた。とても美味しかった。
・お聴きした話

*ここは 2 人世帯なら 4 畳半 2 間なので、松川の仮設のように押し入れに足を入れて寝るようなことはない。あそこは狭い。
*ゴールデンウィーク中の一時帰宅は、水、電気がないので、出来なかった。
*どろぼーは、鍵を壊して物を盗む。タンスの中の古銭も盗まれた。
*飯舘から福島競馬場の宿舎に避難した。4ヶ月。
*原発爆発後も、行政からは何の連絡もなかった。
*原発の様子は、自家発電の電気でテレビを見て知った。
*飯舘は、3/4 が山地。除染は住居の周りだけ。村に住むのは無理。
*村が「帰村宣言」を出したとしても戻れない。川内村と同じ。特に若い人は無理。
*戻っても線量が高く、仕事もない。
*離婚が多い。大家族が分散したためとストレス・被曝(原発)に対する考え方の違いなど。
*爆発前は、4世代が一緒に住んでいたが、今は4ヶ所に分散している。 *線量が高いことは2ヶ月間知らされなかった。それで大量被曝した。
*一時帰宅は、防護装備がなく、時間制限など何もない。マスクだけ。他と違う。安全性を言う行政(責任者)の「方針」。
*浪江から飯舘に逃げてきた人は、みんな津波被害者だと思っていた。村を挙げてお世話をした。しばらくして浪江の人は理由を語らずに全員が去った。
*後になって飯舘が汚染されているためと知った。村民はショックだった。
*ある家族(3人の子供・中学生と小学生)は、放射能汚染を知らされることなく事故後も2ヶ月飯舘に居た。その後避難したが、避難先で情報を知った。子供たちは「結婚できない」「子供を産めない」と何日も泣き続けた。多感な時に痛ましく思う。
*ご近所付き合いを求めて、借り上げから仮設に移ってくる人もいる。近隣関係は大事。























(写真11)


【6】まとめ
1)今回は、名古屋岩の上教会(改革派 相馬伸郎牧師 岡本真理ディアコニア室長)と、「福島の原発被災者に仕える」という目的で一致し、「太陽の村一日ピクニック」と「仮設住宅支援 3 ヶ所同時開催」を協力して行うことができた。 遠方の単一教会が、13 名の奉仕者を被災地に送ることが出来ることに敬意を表したい。他の例を聞いたことはない。日本のキリスト教会の「潜在力」が福島で発揮されることを主にあって期待したいし、微力ながらそのための触媒役も果たしていきたい。
2)今回出会った方 70 名 (庖丁・ハサミ 30 本 17 世帯分)
3)南相馬市(小高区)の自治会長さんは、行政区長であり、小高を案内すると申し出てくださった。 伊達市(飯舘村)の管理人さんは、体験を本にして出版された方で「語り部」もしておられる。そのような方々との繋がりが出来、深まりつつある。
4)原発被災地での「仮設住宅支援」から「高齢者支援」へ、更に「子供支援」へと広がりがある。仮設住宅に限らず、出来る限り被災者・被害者の皆さんと共生する道を求め、歩んでいきたい。
5)最近、「ボランティア震災直後の10分の1に減少」(5月11日NHK)という報道があった(社協を通して活動したボランティアが、発生直後に福島県で127,792人だったが、昨年度は、15,066人)。これは当地に住む被災者の実感に合っている。しかし、原発被災者のニーズは少しも減っていない。
6)楽しい時間を提供すると共に、皆さんの今の苦境に同情し、「私自身も、支援を支援してくれる関係者も、皆さんのことを決して忘れてはいない」ことを示し続けていきたい。






写真1 児童館に集合・見送りの母親たち


写真2 下に落ちているのはタケノコの皮


写真3 ヨーヨー釣り


写真4 坂すべり
(これが一番人気。滞在時間の70%はこれ)


写真5 昼食


写真6 小池長沼仮設住宅


写真7 小池長沼仮設住宅での活動チラシ


写真8 押し花教室の参加者と作品


写真9 ゴミ集積場のペットボトルの山


写真10 原町区社協
一日デイケアー施設「元気塾」(5月7日)


写真11 伊達東仮設住宅(5月8日)


写真12 塚合第2仮設集会案内


写真13 小池長沼(東)仮設集会案内

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