報告:東日本大震災から熊本大地震へ


先月、4月16日を本震として発生した熊本震災への対応を報告させていただきます。
4月18日から、東北ヘルプの川上事務局長と中澤理事が現地に入り、様々な方とお会いをさせていただきました。

その報告書と中外日報様の記事、そして現地の写真をご紹介させていただきます。
どうぞ熊本の被災地、被災者の皆様を憶えていただければ感謝です。

(2016年5月23日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)

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東日本大震災から熊本大地震へ


NPO法人「東北ヘルプ」事務局長
日本基督教団仙台北三番丁教会担任教師
川上直哉



1.
2016年4月16日、気象庁は、その日の午前1時25分ごろ熊本県で発生した地震が熊本地方で起きている一連の地震の「本震」だったと発表した。
阪神淡路大震災と同規模の地震が、噴火が心配される阿蘇山の周辺で、群発している
――そのことを知ったとき、私はすぐに、「三重災害」という言葉を思い出していた。

「三重災害」とは、東日本大震災を英語で説明するために使われる言葉である。
「地震・津波・原子力災害」の三つが一度に起こったことを一息で語る。
もし今回、阿蘇山で起こっている「小規模な噴火」が本格化すれば、どうなるか。
とりわけ川内原発については、その差し止め請求を却下した判決文が、いわゆる「新基準」の火山への対策が不十分であることを指摘したばかりである。
「地震・噴火・原子力災害」という三重災害の予感は、東北の被災地で活動する者にとって、決して不自然なものではない。

私はNPO法人「東北ヘルプ」の事務局長として、三重災害の一つ一つの現場を目にしてきた。その現場の痛みは、今もありありと思い出される。もう「想定外だから」という言い訳は聞きたくない。したくない。

そんな思いが私の背中を押した。キリスト聖協団本部との協働が許された。4月18日、私は仙台からの物資運搬車に乗り込んだ。運搬車は2台。運転手は私を含めて4名。運搬車となったワゴンは千葉県の物資集積所で荷物を満載し、約1700キロの旅を続けた。


2.
東日本大震災の経験は、私たちに多くの人脈を残した。そのネットワークが、すでに起動していた。
被災地のただなかに、臨床宗教師研修の修了生が奮闘していた。

 阪神淡路大震災の経験を東日本大震災に接続して現在も支援を展開している「東京大学被災地支援ネットワーク」や、日米のキリスト者が広範に集って年に一度の国際会議を開催し続けている「東日本大震災国際神学シンポジウム」の関係者、そして「東北ヘルプ」をずっと支え続けている全国の諸教会が、インターネットを活用し、一斉に情報を交換し始めていた。

現地からは「もう一回大きな地震があったら、今度こそ、この建物は崩れる」という悲痛な声が聞こえてきた。

福岡からは、東日本大震災の時に仙台で起こったような支援者の連携を福岡で組み立てたいという志が表明された。

大阪の「15名そこそこの小さな教会」から、募金を集めて送金したい旨の相談が寄せられた。
そして宮城県からは、「不用意な支援と配慮なき支援者の、いかに現地で迷惑であることか」を戒める文書が、詳細な体験談とともに、発信された。

移動する車中、そうした情報を収集し、整理し、配信する。自分たちの支援が、現地に迷惑となるかもしれないという恐れを、何度も思い出しながら。


3.
片道1700キロの自動車旅行は、とりあえず二日がかりのものとなる。

往路・復路ともに、中部・中国・九州の諸教会が宿を提供して私たちの旅を支えた。
途中、伊方原発のそばを通る。
双葉町や富岡町といった福島第一原発周辺の町々も、きっとこのような賑わいだったのだろう。

そして海を渡り、九州へ。
すぐ、土砂崩れの情報が入る。別府から湯布院へは、高速道路が使えない。
山道を通ると、あちこちで崩落した現場の様子が直接見えてくる。

熊本県内に入る。
高速道路を降りると、夜中の11時であった。
その深夜、高速道路への車列が5キロ以上にわたって渋滞を作っていた。
トラックと同じくらい、乗用車が見える。
避難しようとしているのだろう。
福島原発事故のとき、避難する人々が渋滞で難儀し恐怖したというのは、きっと、こんな様子だったのだろう。

熊本市内に到着する。
私たちを出迎えた牧師は、被災体験を語る。
まず縦にドンと揺れ、それから横に揺さぶられ、そしてかき回されるようにグルグルと揺れていく・・・
そう話している最中も、思い出したように小さい地震。
ここは、まだ震災のただ中にいる。


4.
翌朝、私たちは礼拝堂に集まり、静かに祈って活動を開始する。
運搬してきた荷物を教会に降ろし、整理して積み込み、宇城市の浄土真宗大谷派光照寺へ。

「もう一回地震が来たら、もうこの建物は持たない」と語っていた現場である。
快晴であった。到着し、「天気だけは穏やかな日和で・・・」とあいさつしていると、屋根の上から副住職の糸山公照師が現れる。
度重なる地震で、建物が次々と破損してゆく、その応急修繕に追われていた。近隣の僧侶や檀家の皆さんも出入りし、修繕を手伝っていた。

本堂は倒壊の危険を予感させる。
当初ここが避難所となったのだが、相次ぐ地震で場所を変更せざるを得なくなったという。
「ご本尊様は?」と訊ねると、糸山師は本当に苦しそうな顔をされる。
別棟には、大切に横たえられた金色の仏像があった。
その腕は欠け、そして、首が折れていた。それが、400年前から光照寺を支えてきた阿弥陀像だった。

糸山師のご母堂様によると、戦前戦後の苦しい中、この阿弥陀像は「真っ黒」だったという。
経済的な苦労を乗り越えて金箔を貼り直し、長い時間を経てやっとその金箔が落ち着いた輝きを持ち始めた今、この事態である。

「すべてが元の木阿弥」と、ご母堂様の悲痛な声が胸に響く。
糸山師はそこで、幼少期からずっと自分の根底を支えた仏様の首が折れた、その現場に立った時の衝撃と悲しみを語った。

光照寺から自動車で30分の場所では、浄土真宗大谷派教永寺が屋根を残して「ぺしゃんこ」になっていた。
そのとなりの豊川保育園で、ご僧侶と寺族の皆様が地域の子供たちの世話をされていた。
食べるものに不自由しながら、それでも畑でとれるものが差し入れられて、今日まで来たと語った。
目に見える心のよりどころを激しく破壊され、なお、人々の心は寄り添いあい支えあっている。

次に私たちは、益城町へ向かう。幹線道路は渋滞する車で埋め尽くされている。
山道を通ると、あちこちの橋が落ち、道が隆起し、陥没している。
2011年の東北を、まざまざと思い出す。

木山キリスト教会へ到着する。
すぐ隣の家は「ぺしゃんこ」になっていた。
地域の支援センターの趣で、玄関を開けはなち、教会はそこに建っていた。

そこから、益城町の中心部に向かう。
風景が一変する。
あらゆる建物が傾き崩れ倒れている。
その中に、「熊本東聖書キリスト教会」の看板を付けた壁が見える。
建物左側の一階が潰れ、建物が左右に裂け、そして地震のたびに右側の建物が左へと傾いてくる。
その一階には、牧師のご愛娘様が閉じ込められたという。
今は救助され退院したというその方の救出劇を聞き、そしてそのすぐ近くの家屋では「助からなかった」犠牲者の話を聞く。


5.
熊本への往路、私の胸には一つの恐れが兆していた。
現地で、いったい何の役に立つのか。
渋滞を悪化させ、現地の邪魔になるのではないか。自動車二台分の荷物など、まさに「焼け石に水」である。
これこそ、自己満足ではないか。
こうしたことに偽善を感じ、東北で、多くの人が傷ついていたのではなかったか。

迷う思いを抱えて、宿となったキリスト聖協団熊本教会の会堂に立つ。
そこには不思議なキリストの絵画があった。
キリスト者でもない方が描いたという銅版画であった。
無数の「小さい人」がキリストを十字架につけようとしている、という場面であった。
おそらく、衆生の罪深いことを語る絵、なのだろう。
しかし、そうは見えなかった。そうではないと、現場が語っているように思えた。

熊本の人々は、熊本城の一角が崩れてしまったことに、大きなショックを覚えているという。
光照寺の本尊、教永寺の本堂、そして熊本東聖書キリスト教会の会堂は、見る影もなくなってしまった。
その衝撃を思うと、悲しい。
しかし、人々はまた立ち上がり、壊れたものを立て直そうとしている。

地震は続く。
また壊れるかもしれない。
しかしまた、人々は立ち上がる。

キリストの十字架磔刑図は、極限の悲しみと痛みの中に「神が共にいる」ことを示すものである。
大震災のなかで、自分の小さいことを知らされた私たちは、今、それぞれ体をはって「それでも希望がここにある」と示そうとしているではないか。
力を合わせ、寄り添いあい、励ましあって笑いあう。
そうして壊れた営みを立て直し、はかない日常に命を吹き込む。
それが、熊本の被災地で起こっていることだ。
熊本の被災地で今起こっていることは、東北でずっと続けていることだ。

そう励まされて、もう一度、また新しく、私は東日本大震災の被災地に戻ろうと思う。

(2016年4月21日)


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